「アベ政治を許さない」の張り紙を見て違和感持って宣(のたま)った山本直人さんと言う方に問いたい

近所を歩いていたら、とある家の垣根に紙が貼ってあった。「アベ政治を許さない」。
最近、掲示板やデモのニュースで見たあの書体だ。ただ自宅に掲出しているのを見たのは初めてだった。いつまで貼っておくのか、来年の正月はこの脇に門松を並べるのかな?とか、一層のことあの書体で「謹賀新年」と書いたらどうなんだろうとか、関係ないことを思いながら歩いているうちに、この言葉への違和感をどこかわかった気がした。
調べてみると井戸まさえさんのブログに、赤木康伸氏のfacebookからの引用が紹介されていた。赤木氏は「政権・政策批判というよりは、安倍晋三氏個人への悪意が感じられる点」に引っかかりを覚えるということだ。
僕が引っかかったのは「許さない」という方のフレーズだ。そもそも、「許す」というのはどういう時に使われる言葉なのだろうか。
普通に考えると「許す/許さない」を決めるのは、「力を持っている人」だ。それは、個人・法人に対して官公庁がおこない、社員に対して企業が行ったりする。親が子供に対して行うこともある。
「現行の政治を許すかどうかは、私たち国民が決める」というのは、国民主権の概念からいえばたしかに、この言葉の使い方が間違っているわけじゃない。しかし、「許す/許さない」を決めるのは相当の覚悟がいるはずだ。
まず僕自身がそこまで、言い切れるほど勉強しているのかと自問すると、早々にこの言葉は使えない。法案や政策を「許さない」と言い切るには、相当な研究が必要だろうが、本当にそこまで学んでいる自信がない。それだけの難題だと思っている。
安保法案の議論で一番知りたかったのは、「なぜ必要か」という「未来についての仮定」の話だったし、「存立危機」の精緻な定義だった。明快な対案もなく、「許す/許さない」に論点をずらすのも一つの戦略だと思うが、政策の話は深まらなかったように思える。
そして、何よりも気になるのが「許さない」と言い切った時点で、創造的思考は止まったのではないか?ということだ。
「許す/許さない」を決める時、人は常に傲慢さと紙一重の状況にあると思う。それは「許しを乞う」側になった時に誰もが経験する。
 子どもの願いに対して「絶対に許さん!」と親に言われたとき、「ああ、なんで思い込みが強いんだろう」と思ったことはないだろうか。自分のミスを謝った時に「絶対に許せん」と言われて、つらい思いをしたことはないだろうか。
「許さない」という言葉を発するには、謙虚さ、そして深い学びが必要で、さらには覚悟もいる。対象がどんな権力者だろうと、それは同じだと思う。
そういうわけで、この「許さない」がさらに広がるのかどうかは、いろいろな意味でとても気になるのである。
 
 

これ『「アベ政治を許さない」への言葉的違和感。』と題したLivedoorBLOGOSに掲載された、山本直人さんの0925 11:59Blog from_NYの抜粋である。

 
 
この方何か勘違いしてるのではと私は思った。その前に私はとてつもなく安倍晋三は嫌いである事を宣言しておきたい。確かにこの方の言い分は少し理解出来るが、一番大事な安倍晋三と言う人間の権利の問題である。これは分けて考えるべき事をゴチャゴチャに考えているのではと思った。政治を司る人間(彼らは自分をいとも簡単に政治家と言うが、私は彼らを政治家と思った事は1度もない。いやそう呼びたくないと言った方が正解である。)内閣総理大臣安倍晋三と1個人の安倍晋三とは違うと言う事である。その一番良い例が総理夫人の昭恵さんの毒女ニュース見るまでも無く、夫安倍晋三への見方である。多少面白おかしく冗談っぽく話してはいるが、考え方は180度違う。それが証と言えばそうであるが、我々選挙民である国民は少なくとも内閣総理大臣安倍晋三の政治手法はそれこそ「アベ政治を許さない」言えるし、それ以上である。何故か例え内閣総理大臣安倍晋三が良かれと思ってやった政策、違憲だと認じられたら普通は違憲を回避(憲法改正)してから進めるのが道理なのに彼はそれをやらなかった。だから「許さない」のであり、いや「許せない」と言った方が正解である。私はこの山本直人さんに問いたい。あなたが子供たちにこの問題を問われたらどう答える?聞いて見たいものである。本当に政策を行おうとしたら、何も憲法解釈の変更でなく何故憲法改正をやってからやらなかったのか。やろうとした政策の結果論とはまた別次元である事をお断りしておきたい。国民に説明する以前の問題である。丁寧に説明?頭大丈夫?か。