早いもので昨日亡き娘の7回忌法要だった

昨日我が家では娘の7回忌法要だった。 時の経つのは本当に早いものである。 2012年平成24年1月13日(金)の事だった。
 
その日私は病院の定期検診の日だったので、ほぼ1日留守にしてた。もちろん妻も一緒だ。病院の診察とは長いもので1日掛かりである。帰宅したのほぼ夕方に近かったから、妻が夕食の準備が終わって、さあ食べようとして、いつもの通り、各部屋の子供たちに声をかけ、食べ始めたのだが、いつもおなかすいたと言いながら早めに食堂に来る筈の娘が来ないので、一番下の孫の保育園児が娘を食事の誘いに部屋まで行って声をかけたが、声が無かったので寝ているのだろうと思い、ソッとしてやろうと言う事で、我々は食べ始めたのだが、その後私は風呂に入り、再度娘の部屋に誘いに言った孫が言うには、声かけても、返事なく、ドアも開かなかったそうである。その後の顛末は、その時の様子を当時の拙ブログで改めて紹介したい。
 
 
2012012008:21   娘の死(その1)
 
 その日私は3日分のブログの記事を書き終え浴室に居た。久し振りの満足感で浴槽でリラックス。その時前の廊下や前室が何故か騒がしい。
 すると妻が血相を変え、「お父さん、とにかく落ち着いて」と騒ぎながら浴槽のドアを開け、可笑しな事を言いながらあわてふためき叫んで入って来た。
 「お母さんどうした?」と私は何かあったのかと言うように聞いた。
 「Mちゃん(私の娘32歳独身同居)死んでた」
 「何?どうして、直ぐ救急車を」と私は言った。
 妻は「駄目、冷たくなってた。それでS先生に連絡したので今直ぐ来る」と言って出て行った。この間僅か1~2分位だったろうか。 これ13日の夜の事である。
 
 私は、目の前が真っ暗になり、風呂の中で号泣した。
 とにかく早く浴室を出なければと急いで体を拭き浴室を出、居間に行った。居間には息子の嫁さんと孫3人が何か不安そうに居た。そこで私は堪えきれず、床を叩きながらまたも号泣した。
 
 すると、病院のS先生が到着し、娘の死体を調べた。どう言う訳か事件性の有無の為に県警に(S先生が)連絡し、その県警の鑑識が来るの遅れてた。とにかくその日どう言う訳かこのての事が多くてんてこ舞いだったらしい。2時間も待ったろうか、来たの22時頃になっていた。こちらはただ待つしかなかった。すると0時頃ようやく結論が出、世帯主の私に報告したいとの事だった。もう真夜中の1時頃になっていた。
 
 結論的には、どうも死後経ち過ぎていて、しかもエアコンが掛かっていて、死因と死亡時刻が特定出来ないし、しかも、事件性も否定出来ないため、死体を解剖したいとの事。私は娘をそんな風にしたくなかったため断ろうとしたら、刑事が「済みません、これは断ると言うような事出来ないんです」。親族・関係者には断る権限が無いとの事を言われた。私はそんな理不尽なと食い下がったが駄目であった。つまり事件性が否定出来ない場合は、関係者には選択の権限が無いのだそうである。驚いたがしょうがないため、しぶしぶ承諾した。
 
 その後娘は大学の法医学教室に搬送されるため、我が家を出た。その後小何時間も立ったろうか。外は白々もう朝になっていた。電話のベルが鳴った。朝早いため特に響くのを感じた。県警の刑事だった。県警本部と相談した結果、事件性無しと結論付けたため、死体解剖せずに返せるとの連絡で、至急葬儀社を手配し、その後の行事を進めてほしいとの事だった。随分と勝手である。死体解剖は時間が掛かるので、2~3日葬儀その他は止めててほしいと言われたばかりだったからである。
 
 私たち遺族はまたもやあわてふためいた。直ぐお寺に連絡をしたが14日は友引で、全て明日以降に繰り延べで15日は混んでいて、無理だと言われ、しょうがなく、平日の月曜日の16日の葬儀と相なった。
 
 その2に続く(後日)
 
 
2012012108:10   娘の死(その2)
 
 私は娘の死を認め、葬儀の手続きをしてその日程を決めはしたが、正直まだ気持ちの整理がつかず、納得出来ずに居た。妻との会話では話こそ出来ず泣いてばかりだった。しかし、現実娘は呼べども動かず返事せず。この結果は受け入れずにはと思い、やっとこさ腹を決め葬儀の日程表に目を通した。
 
 私は以前より、どう言う訳か父親と娘の関係で居た。つまりもう子供ではない一人前の一個の女性と見、プライベートにはあまり深入りしないで居た。結果的にはそれが良かったのか悪かったのか、今にして思えば私は彼女の何も理解してなかったのかも知れない。殆んどどう言う生活をし、何を悩み何を思っていたのか殆んど解かっていなかったのかも知れない。時には父親と娘の会話も殆んど無かったに等しい。時には心なしか寂しげな表情を見て、もしかしたら、友達も居ず、婚期を逸したアラサー世代とも思っていた事も事実である。
 
 そして、葬儀の日である、そんな気持ちを抱いていた私は葬儀当日の焼香参列者の数少しと見込み、香典返しを少ししか頼んでいなかった私は、それがとんでもない間違いだった事に気付くにはそんなに時間が掛からなかった。
 
 娘は高卒後、やりたい事があると、埼玉の短大に進学し、それを終え、も少し勉強したいと故郷の各種学校に2年間通った。だが卒業しても就職出来ず、某省の出先機関の臨時の職員に応募し、運よく合格し、昨年末まで在籍し、その後辞め、家でのんびり家事手伝いをしていたのであった。娘は私に似てスポーツは得意な方で、中学は陸上とバスケットボール、高校時代はソフトボールに在籍しそれなりに活躍した方である。
性格的には、私に似て、どちらかと言えば気難しく、企画好きな行動派だったと思う。
 
 葬儀当日3回も香典返しの数を追加し、葬儀に参列してくれた方々の数に正直驚き、今は自分の娘を誇りに思っている次第である。一人ぼっちのアラサー世代と思っていた自分が恥ずかしかった。こんなにも来てくれた皆さんを見て、娘は嫌われていなかった。それが今娘を亡くした父親の正直な気持ちである。悲しみと同時に、何て言うか清清しさを感じた事も事実である。
今私は娘の死に直面して、次の事を思い知った。
 
 「死して知る生時の価値」
 
 これを実感した娘の死であった。
 逝った者、残された者全てにである。
 
 そして、このブログに直接お悔やみを下さいました方々には本当にありがとうございました。この場を借りまして感謝を申し上げます。
 
※ 今まで通りの記事が書けるか心配ですが、頑張って見ます。
 
 
2012012808:14   娘の死、仏事を全て終えて
 
26日でもって娘の仏事滞りなく全て終えました。
 死して二7日、納骨を残し全て終える事が出来ました。
 お寺の住職と相談し、雪深きお墓、寒いお墓への納骨、もう少し一緒に居たい気持ちを汲んで頂き100ヶ日の4月21日に致す事としました。これで我々両親はもう少し娘と一緒に居る事が出来ます。
 長いようで短かったこの2週間、未だに現実に戻れないでおります。
 「どうして、何故」 それだけを自問自答しております。
 これからは、我が家の系譜は息子1人になってしまいました。がその子が男子3人おります。これが我が家の家長としての私の安心であり、誇りでもあります。末永く育て我が家を維持して行きたいと思っております。
 ブロ友の皆様には、お悔やみのお言葉やお励ましのお言葉を頂き本当に感謝を致しております。
 なるべく、早めに気持ちの整理を付け、このブログに復帰致したいと思っております。
 本当にこの度は、皆様に、ご心配とご迷惑をお掛け致しました。この場をお借りしお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 
 
2012020520:31
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娘の死 「日薬(ひぐすり)」に救われて
 
私たち夫婦は娘の死によって、毎日が憔悴しきった、何も出来ない日が続いている。
 先日妻の友人が訪ねて来られ、元気の無い私たちに「日薬(ひぐすり)」の良さを説いて行った。
 その話を総合すると、ある心療内科医の先生が教えてくれたそうな。
 最初私は真に受け、そんな良薬本当にあるの?と真顔で聞いた事が少し恥ずかしくもあった。何の事はないのである。要するに日にちが立つ事つまり時間の経過であった。なるほど日1日を過ごす事による、時間の経過と言う薬であった。
 娘を亡くしようやく三7日が過ぎた、確かに時の経過により、日1日と娘の事を想う気持ちが時間とともにいくらかではあるが変わって来ている事に気付いている。
 恐らくこのまま時間の経過とともに、その「日薬(ひぐすり)」によって、心の傷が癒されて行くのであろう。ある意味寂しいがそれによりまた人間として成長する事にもなるのである。娘の死を無駄にせずにそれを1つの契機と捉える事も娘は許してくれると思っている。
 
 いづれ私たちはその「日薬(ひぐすり)」によって救われていくのであろう。
 
 
と言う風に書いておりました。
正直、未だ娘への気持ちは癒えておりませんが、それこそ「日薬」のお蔭で何とかある程度その気持ちを断ち切れるところまで来ている事だけは確かです。 娘を亡くしたその気持ちだけは消し去る事出来ませんが、薄れて来ている事だけは事実です。苦しいけれども明日を見て頑張って行きたいと思っております。