12年前の今日、私はあるリハビリ病院に居た。
この日久しぶりの外泊許可が出て、自宅に帰るため午後3時から栄養指導を受ける事になっていたため迎えに来た妻と栄養指導室の前に居て待ってたら、急にグラグラと来た! とてつもなく揺れた。栄養指導室の前は休憩ホールになっており、2階まで吹き抜けになって居て2階の梁がさらしコンクリートになっていた。その梁がコンニャクのようにグニャグニャになるように見えた。それほど揺れた地震だった。その時不思議な事に妻の横で私にしっかりとつかまっていた若い女性看護師が居た事に気づいた。いつ来たのかも解らず仕舞だったが、たまに病院に顔を出すと、まだいるその看護師とは今では笑い種になっている。その日の帰宅途中は初めて見る光景が未だ忘れられない。帰宅途中の国道の交差点の信号機が停電のため全て消えていて、車が渋滞してて左右前後慎重に見極め運転して帰宅した。
久しぶりの自宅だったが電気が点かず暖房機が使えず、さらにIHクッキングヒーターも使えないため簡易のガスコンロを出して調理したが、3月だからまだ寒く、問題は暖房だった。急遽昔使っていた灯油の反射式ストーブを出してしのいだが、東北の寒さは尋常ではない、その日は妻と体を寄せて寝た。幸運だったのは3台ある冷蔵庫にしまってあった食材を利用できたため7人家族の食事が確保できた事だ。問題だったのは病院に帰ってからの食事だった。電気は復旧したが糖尿病腎症の塩分制限私の食が確保出来なかった事である。他人には言えないが、看護師長から泣きながらひそひそ話で食事提供出来ない旨の話を受けた。自分が病気なのにその師長が可哀そうになって来た。しょうがなく退院を決意し即刻病院を出る事にしたが、翌年その師長は転勤してていなかった。
12年後の今日朝のNHKニュースであの日の当時町双葉町の住人のインタビューを見たが、同じ東北の日本海のわが市でさえあんなに酷かったのだから直接被害を受けた人々の気持ちを思うと、涙が止まらなかった。本当に他人(ひと)ごとと思えなかった。
今後の当町の復興を切に願いたい。