悪夢のような8年前のあの日(3月11日)

8年前のあの日私はリハビリ病院で苦しいリハビリに励んでいた。
血圧降下剤の副作用で腎臓をやられ、糖尿病腎症と診断され1食3g以下の塩分制限とタンパクとカリュームの制限である。当然に病院は私だけ特別メニューとなる。
塩分制限は文字通り塩分の制限であるが、ラーメン等は1杯に約10g以上の塩分であるから、当然に食べれない。病後11年その大好きなラーメン食べてません。(本当に苦しいです!)それにタンパクとカリュームご飯は120g茶碗さらりのお代わりなし、野菜と果物は生はカリュームの塊と同じなので、野菜は温野菜、つまり煮るか焼くかで、果物は缶詰と相成ります。特に好きなバナナは食べれないと言って良い。酷いもんです。その日(3月11日)は退院間直になっていたので午後3時から家庭での食事の栄養指導の指導日だった。部屋の前で待ってたその時、グラグラット例の地震が来た! ここ(病院)は地盤が緩いのだろうか、特に揺れた。私は吹き抜けのところに居たので、晒しの2階コンクリート梁がコンニャクのようにグニャグニャ曲がるのが見えた。その後が大変だった。電気は消え暖房もつかないし、何も出来ない。そしたら私のところにここの管理栄養士さんが来て、私に食べさせる物が無いと泣いて言う。この地震のために食料が入って来なくて、殆ど缶詰食が何日続くか解らないのでどうしたらとの事だった。私は話を聞いてて、これは食べさせる物ないから自発的に退院してくれと言う事と理解した。その栄養士さんにOKしたら泣いて喜んでくれた。私は早速その晩退院した。がその後がいけない。自宅に帰ろうにも帰路の高速道路は止まってるし、下の国道は電気が消えて交差点と言う交差点が車が右往左往で進めない。普段1時間もかからず帰れた時間が3時間もかかってしまった。自宅では電気が無いので、ロウソクを何10本も点け明かりを確保した。暖房は灯油生だき反射ストーブ数台、会社の現場用を持ってきて点けたから寒くはなかった。その日は家族8人抱き合って雑魚寝した。驚いたのは次の日である。前の国道が車の渋滞だった。ガソリンを入れるため、ガソリンスタンド待ちの行列車だった。家も車5台だ何とかしなければと思ってたら、息子が1台づつ入れに行って、もうすぐ5台満タンになると言う。どうしてだと息子に聞いたら、うちの会社は公共事業を今二つほど抱えているから、優先して入れられると言うではないか。また取引スタンドの一つが、緊急用スタンドになっていたので、一般の人のように並ばずにできたらしい。親戚縁者にもそれを配慮したから息子はまるで休みなしだったみたいだ。
考えて見れば未曽有うの地震、生きてる内に経験したこの状態は幸か不幸か今後の何かの糧となるのだろうか?