3.11あの時私は

 昨日の3月11日は、あの東日本大震災からちょうど2年が経った忘れ得ぬ日である。メディアはどこもあの日の特集を組んだ。
 本当に思い出すのも辛い。思えば私はあの時の事を思い出してみた。
 今もそうだが私はあの日あの時、今と同じこのリハビリの同じ病院にいた。その日私は久方ぶりの外泊であり、区切りの病状報告と、栄養指導の日でもあった。14:00に主治医からの病状報告、そして15:00から栄養指導と言う事で妻と一緒に聞く事になっていたため、妻がそのために13:00過ぎには病院に来ていた。14:00に主治医からの病状報告が終わり、14:30過ぎ、早いが栄養指導を受けるため、栄養相談室に向かっていたその時である、そこは裏玄関の吹き抜けホールだったが、その吹き抜けホールの2階床持ちと1階梁の共用の打ちっぱなしコンクリート梁がこんにゃくのように揺れたのが正面に見えた。私は専攻が建築だから良く解ったが、本当に初めての光景だった。こんな事見た事が無かった。本当に梁がこんにゃくのように揺れたのである。正直怖かった、こんな光景見るの昭和39年の昼過ぎの新潟地震以来だった。この病院での震度は5+だった。当然15:00からの栄養指導は中止である。外泊だったため直ぐに帰る支度をし外に出た。高速道路は閉鎖だったため従来の国道を南下した。途中の信号と言う信号全て止まり、県道や市道から国道に出る車がビッシリ詰まってた。こちらは国道南下のため優先だからすんなり来たようにも思えたが、いつもは1時間弱で帰れるところ、自宅に着いた時には3時間ほどかかっていた。
 本当に久し振りの我が家だったが、電気は消えてしまっていたが、どう言う訳か水道は使えたのでそれだけでも幸せだった。家の中にある懐中電灯やロウソクと肝心な灯油ストーブをかき集めたが、なかなか見つからず、それでも何とかストーブは2つほど見つけホームタンクから18リットル缶に灯油を入れ替えし暖をとった。問題は寝る時である。困ったのは冷え症で電気毛布を離せないでいた私である。しかし、そう言う場合は気転の利く私である。まだ小さい孫たちを息子夫婦から湯たんぽ代わりに借りることにした。これは名案だった。変な事だが朝まで暖かく寝れる事出来たのは孫たちのお陰であった。(笑)
 さて翌日からの車のガソリンである。傍のガソリンスタンドからの給油の車の待つ列が我が家の前まで繋がった。これは大変だ。ガソリンを入れられなきゃどこへも行けないし買い物にも困る。どうしようか。そしたら息子が言う。オヤジ大丈夫だ。会社の名前で入れて来いと言う。早速妻が18リットル缶に入れて直ぐに戻って来た。どうして入れられた?と聞いたら、私の会社で現在工事してる公共事業に使用するガソリンと言えば待ったなしに貰えたとの事。しかし、妻は二度としたくないと言っていた。だって何時間も待っている人たちを差し置いては、どうしても気持ちがダメだったと言っていた。これからは待ち人が居なくなった深夜に行く事とした。
 電気がつかないため、テレビで最新情報が見れない。でも重宝したのが、携帯のワンセグであった。これで見れた。問題は電池であった。買い置きがいくらかあったし、電池電源のアダプターもあったので助かった。
 このような災害はめったには無いだろうが、その時のための備えだけは怠ってはいけない事に身にしみた、3.11ではあったのであるが、昨日のテレビでやっていたように、この事を風化させてはいけないとつくづく思った昨日の特集であった。