もうすぐ退位される美智子皇后殿下に本当にありがとうとお礼を言いたい

「新しく天皇になる方は大丈夫だろうか」
 
 令和の御代替わりが近づくにつれてこんな声が聞こえるようになった。
 
 平成16年の「人格否定発言」や、雅子妃殿下がご病気でたびたびご公務を欠席されたことなどから、徳仁皇太子が振り回されているかのイメージが浮かぶのだろう。あるいは、平成の天皇が精力的に活動されているのに対し、なんとなく地味すぎて行動がよく見えないこともあるのかもしれない。
 
 だが、私はまったく危惧していない。今では想像もつかないだろうが、平成の天皇が皇太子だった頃も同じように言われたものだ。
 
■“マイホームパパ”と揶揄されていた天皇
 かつてのメディアが皇室を取り上げるといえば美智子妃殿下のことだった。タイトルに「皇太子御一家」とあっても、主役は「美智子さん」である。毎週のように飽きるほど掲載しても雑誌の部数は落ちなかった。美智子妃はそれほど大スターだったのだ。
 
 明仁皇太子といえば、どこへ行くにもカメラを下げ、美しい美智子妃や浩宮さま、礼宮さまらを実に楽しそうに撮影されていた。その光景は、モーレツに働くサラリーマンが、子供たちの待っている家に帰るとマイホームパパに変わる姿に重なった。
 
浩宮さまは昭和天皇に似てご立派だ。隔世遺伝ではないか」といったことがまことしやかに囁かれたのも、皇太子の存在感が薄かったからだろう。その皇太子が践祚して天皇になられたが、平成の御代替わりを、「なんだか頼りないなぁ」と感じたのは私だけではなかったはずである。しかし、30年経った今、そう思う人はいないだろう。
 
 戦後、昭和天皇は象徴天皇になったが、ある意味ではまだ“大元帥”だった。しかし平成の天皇は、即位した当時こそ“マイホームパパ”と揶揄されたこともあったが、見事に平成流の象徴天皇像を完成させた。その象徴天皇がいかにして創られていったのか、6つの視点から追ったのが拙著『 天皇の憂鬱 』である。
 
■「見せない」昭和天皇と「どう見せるか」を考えた今上天皇
 明仁皇太子がご結婚された昭和34年はテレビ時代の始まりであった。この年だけで民放は21局も開局し、前年に100万台だった白黒テレビの台数が、ご成婚直前には一気に200万台に達している。『皇室アルバム』(TBS)が始まったのもこの年だった。カラーテレビが普及したのは、その5年後の東京オリンピックからである。
 
 若き皇太子ご夫妻がそのことを意識されなかったはずがない。
 
 戦前の昭和天皇は見せないことで威厳を保った。おそらく戦後の巡幸(昭和2129年)が始まるまで、御真影を除けば天皇を見た国民はほんの一握りだろう。しかしテレビの登場はそれを一気に葬り去った。テレビの時代は、むしろどう見せるかである。新天皇像をどう見せるかは、すなわち「国民からどう見られているか」でもあった。
 
 民間出身の聡明な美智子妃は、それが時代のトレンドであることを充分すぎるほどわかっていたのだろう。浩宮をご出産されたとき、宮内庁病院の御料病室には、皇太子ご夫妻について書かれた雑誌が、週刊誌を含めて山のように積まれていたという。
 
 もちろん興味半分に読んでいたわけではない。国民からいかに見られているかを知るために違いなかった。どう振る舞えばどう書かれ、それがどう国民に伝わっていくか。そんなことを研究されていたのだろう。それがテレビに反映されないはずがなかった。
 
■被災地訪問を背広から防災服に変えられた
 平成の象徴天皇像の骨格がいつ誕生したのかわからないが、平成28年の「象徴としてのお務めについて」で「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と述べられたように、象徴天皇の軸を国民との「信頼と敬愛」に置かれたことは間違いない。おそらく昭和天皇人間宣言詔書にある「朕と爾等國民との間の紐帶は(略)信賴と敬愛とに依りて結ばれ」をご参考にされたのだろう
 
 では、この「信頼と敬愛」を国民に向けてどう形にするのか。それこそ、テレビを通して新しい天皇像をどう見せるかであった。たとえば、昭和天皇のように立ったまま向き合うのではなく、跪いて被災者一人ひとりに同じ目線で語りかけるスタイルもそうだ。これはまさしく天皇の思いを、国民にどう見せるかを意識されたものだろう。あるいは、平成3年の雲仙・普賢岳も平成5年の奥尻島も背広姿で見舞われたが、平成7年の阪神・淡路大震災から防災服に変わっていくのもそうだ。
 
■「訂正してほしい」とテレビ局に入った1本の電話
「皇室日記」(日本テレビ)の元プロデューサー・入江和子さんはこんなことを語っている。昭和26年に明仁皇太子が学友らと山形の蔵王へスキーの練習に行ったエピソードを、平成21年の「皇室日記」で放送した時のことである。
 
「殿下が泊まられた温泉旅館の女将に取材すると、4泊されたとおっしゃったんです。お泊りになったことは確かでしたので、大丈夫と思い放送しましたが、放送後、宮内庁の侍従の方からご連絡をいただき、『旅館に泊まったのは1泊で、あとはランプしかない質素な山の家に泊まったので訂正してほしい』と。慌てて当時の山形新聞で調べたら、やはりそうでした。旅館に何泊もされて、殿下と学友たちがすき焼きを召し上がったという女将の話から、豪勢に過ごされた印象を与えてしまったことを、大変申し訳なく思います。もちろん翌週の放送で訂正しました」
 
 50年前のことでも間違いは正しておきたいという、「どう見せ、どう伝えるか」への天皇のこだわりを感じさせる。
 
■平成の象徴天皇像はテレビの時代とともに生み出された
 こうしたスタイルを決断したのは、もちろん天皇ご自身である。しかし、戦前は東宮仮御所の中で育てられ、学友以外に国民と交わることがなかった皇太子には、国民からどう見られるかという視点を持つことは容易でなかったはずだ。そこには国民から「見られる」ことを意識されていた美智子皇后の影響があったに違いない。実際、美智子皇后はご結婚当初から、障害のある方などと接するときは必ず同じ目線で話されていた。それを天皇は見習うべきだと思われたのだろう。同じようにされたのはその後だったという。
 
 そう考えると、平成の象徴天皇像は、テレビの時代と共に、二人三脚で生み出されたものだと言えるかもしれない。
 
■令和の象徴天皇像はインターネットと共に
 だが、今世紀にはいると、テレビに代わってインターネットが時代を創り出すようになった。考えてみれば、徳仁皇太子と雅子さんが結婚されてわずか2年後に、Windows95が発売されてインターネット時代の幕が開けた。令和の象徴天皇像は、インターネット抜きには考えられない。
 
 新天皇はそのことに気づかれているかどうかはわからない。ただ宮内庁といえば、ホームページに映像をアップしたのも平成21年とのんびりしたものである。それも情報発信というより資料提供の域を出ない。英国王室がツイッターで盛んに情報発信しているのに比べると雲泥の差である。
 
 だが、それほど心配することはないだろう。天皇は孤独であると同時に、何事も決定するのは天皇おひとりである。新しい象徴天皇像の誕生は、天皇の「ご覚悟」さえあればいい。聡明な皇太子のことである。ネット社会にふさわしい皇室の情報発信はどうあるべきか、きっと国民に応えてくれるはずだ。
 
「平成」から「令和」への御代替わりは、単に元号が変わるだけではない。これまでにない象徴天皇の誕生が予感されるのである。
奥野 修司
 
 
これ『「新しく天皇になる方は大丈夫だろうか」という問いは繰り返されてきた』と題した文春オンライン4/28() 11:00の配信記事である。
 
 
現在の皇室の近代化は紛れもなく美智子皇后のご努力の賜物である事は国民の誰一人否定出来ない事実であろうと思う。
民間から皇室に嫁ぎこれだけの気配りと気遣いで皇室改革を行ったご功績は決して国民一人一人が忘れる事は無いだろうと思われる。それだけ美智子皇后は賢く、天皇陛下の人を見る目には感服する次第である。正に皇室の母であり、ひいてはこの日本の母でもあると思っている。
私的の感だが、今度の陛下の生前退位も恐れ多いが、美智子皇后が陛下のお身体を思い余っての事ではと感じたと同時に、陛下ご存命中に「しっかりせよ皇太子及び皇太子妃」の意味ではと私は理解してる。譲位が皇太子夫妻の人間形成に寄与するのではと私は勝手に考えた次第である。皇太子夫妻の背中を押したものであり、自らの存命中に気配った美智子皇后の思いと理解したい。その美智子皇后の思いが雅子妃と親御さんの小和田夫妻に届くかは未知数だが、届く事を願いたい!