自民党史上初の首相経験者の再登板となる第2次安倍晋三政権が発足してから間もなく6年が経つ。当時の民主党政権が崩壊する引き金となったのは、野田佳彦前首相が突然の衆院解散に踏み切ったことだった。その野田氏が語る「6年前の反省と安倍首相への恨み節」がいま、永田町の話題となっている。
もちろん「歴史に"もし"(if)はない」のが政界の常識だ。しかし、もし当時の首相だった野田氏の解散断行が別のタイミングだったら、その後の政局展開は大きく変わり、安倍政権の誕生はなかった可能性もあった。
野田氏は「もっと早く解散するつもりだったが、党内状況や外交問題などで遅れた」と述懐。そして、自らが「1内閣1仕事」と位置付けて猛進した消費税10%への「社会保障と税の一体改革での3党合意」の精神を「安倍首相が踏みにじっている」と改めて悔しさをぶちまけている。
■「使命感」で消費増税に踏み切る
首相就任時に、メディアなどから“ドジョウ”という愛称で呼ばれた野田氏が、政権交代劇の一方の主役を演じた6年前の「近いうち解散」の内幕を詳細に語ったのは、11月7日の日本記者クラブでの会見だった。約1時間半に及んだ会見と質疑応答で野田氏が力説したのは、政権を担うトップリーダーの「覚悟と決断」だ。菅直人首相(当時)の退陣を受けて2011年8月の民主党代表選を「大逆転」で制し、民主党3人目の首相となった野田氏が、「首相の座をかけて挑んだ」のが消費税増税だった。
政権を担っていた民主党が敗北した2010年の参院選で、野党だった自民党は消費税10%実現を公約に掲げた。翌年の首相就任時に野田氏は「財政再建のための消費税増税」を公約に掲げ、党内の反発も押し切る形で野党の自民、公明両党との協議に突き進んだ。この行動について、野田氏は「このまま何もしなければ日本の財政は破綻する」との強い危機感と、「未来に責任を持つ首相としての使命感だった」と述べた。
ただ、実現までの経過は曲折の連続だった。民主党政権誕生の立役者とされた小沢一郎氏(現自由党代表)らが「増税の前にやるべきことがある」と猛反対し、首相の野田氏が、当時の谷垣禎一自民党総裁、山口那津男公明党代表との「民自公3党合意」に突き進むと、小沢氏は2012年7月に同調する議員を連れて離党した。会見で野田氏は「増税に反対して党を去られた方もいたが…」と苦笑しながら、「増税は政権のタブーとの呪縛を断ち切るため頑張った」と当時の苦闘を振り返った。
野田氏は、当時5%だった消費税率を2014年に8%に、2015年に10%に上げることで、増加し続ける社会保障費の財源確保と財政健全化を目指し、2012年8月8日に自公両党との「3党合意」にこぎ着けた。その際の交渉相手だった谷垣氏について、野田氏は「ケミストリー(相性)が合い、『次の選挙より次の世代を』という共通認識を持てた」と谷垣氏の対応を評価した。
今年10月30日の臨時国会の代表質問で、増税を2度延期した首相に対し、野田氏が「(首相が増税延期を)選挙の争点にされたのは、『3党合意』の精神を踏みにじるものだ」と追及したのも、当時の谷垣氏と安倍首相との「政治哲学の差異」を浮き彫りにしたかったからだ。安倍首相は「政争の具にはしないが、選挙の争点にはした」と開き直ったが、野田氏は「まさに(政治家としての)感覚の違いだ」と批判した。
2段階で消費税率を10%に引き上げるという3党合意が成立した2012年8月8日、野田氏は谷垣氏らに「近いうちに国民に信を問う」と約束した。通常国会は9月上旬まで会期が延長されていたこともあり、野田氏は「解散は本当に『近いうちに』と考えていた。(2012年9月の)自民党総裁選の前というチャンスもあった」と当時の心境を明かした。
■「谷垣首相」誕生の芽もあった
当時を振り返ると、谷垣氏の対応をめぐって自民党内にも批判があり、9月の総裁選に向けた“谷垣降ろし”の動きも浮上しつつあった。もし、野田氏が8月中に解散しておけば、衆院選が自民総裁選に先行し、自民党が勝てば「総裁続投・谷垣首相誕生」となった可能性もあった。そうなれば「3党合意はきちんと受け継いでもらえたはず」というのが野田氏の見方だ。
さらに、「当時の政治状況から、『解散が早いほど(民主党の)負け幅が小さい』との読みもあった」と振り返る。たしかに、そのころは飛ぶ鳥落とす勢いだった橋下徹大阪市長(当時)が維新の党を立ち上げ、国政参加に踏み出していた。野田氏は「橋下さん率いる維新の選挙準備が全国で終わったら民主党は第3党に落ちる、との危機感も強かった」と語った。
結果的に解散に踏み切れなかったのは、「3党合意の直後に李明博(イ・ミョンバク)韓国大統領の竹島上陸や、中国との尖閣案件が起き、政治空白を作れなくなったからだ」と野田氏は振り返る。特に尖閣問題では「石原(慎太郎知事=当時=)さんの東京都が(尖閣を)買ったら、対中関係でハレーションが起きると思っており、急いでやれば国有化をやる時期に重なると考えた」と説明し、「谷垣さんは続投するだろうと思い、解散を少しずらすほうに動いてしまった」と悔やんだ。
野田氏が「近いうち解散」の先送りを余儀なくされたことで、自民党総裁選は構図が一変した。谷垣氏が出馬を断念する一方、「予想外の展開」で安倍氏の総裁再登板となった。その後、野田氏は11月14日の安倍氏との党首討論で突然「16日に解散する」と宣言し、12月14日投開票の衆院選で自民党が大勝し、民主党政権は3年3カ月で幕を閉じた。
野田氏は「当時の民主党内には、政権を維持して翌年の参院選との同日選挙を選択すべきだとの声もあった」と明かす。ただ、それを思いとどまったのは「そうすれば、(衆参)両方で大敗して、民主党そのものが壊滅すると考えた」からだ。もちろん「いくら何でも『近いうち』は年内で、政治家として嘘つきの汚名は避けたい」との思いもあったという。
■消費増税、3度先送りのリスクがある
こうしてみると、野田首相の解散のタイミングが遅れたことで誕生したしたともいえるのが第2次安倍政権だ。野田氏は「振り返ればあの時が景気も底だった。いいタイミングで(安倍氏に政権の)バトンを渡しちゃった」と苦笑した。その安倍首相は、消費税増税について2014年は予定通り税率を8%に引き上げたが、10%への引き上げは2度先送りし、10月15日の臨時閣議でようやく「2019年10月から実施」の方針を表明した。しかしなお、与党内には「来年参院選前にまた延期するのでは」との疑念が残る。
この点について、野田氏は「断じて許されないが(安倍首相だったら)2度あることは3度というリスクがある」と警告した。
その後、安倍首相は国政選挙で勝ち続け、民主党は民進党に党名を変えて再起を目指したが、2017年10月の衆院選前に大分裂に追い込まれた。このため、後年に政治史を振り返れば、野田氏は「民主党最後の首相」と位置付けられることになりそうだ。
野田氏は解散断行を宣言した2012年11月の党首討論で、当時の安倍総裁との間で「国会議員が身を切る定数削減」を約束し合った。しかし昨年、自民党は参院定数を「6増」する方針を決め、国会でも強引に議決した。これについても野田氏は「約束違反で、身を切る覚悟すらない」と憤りをあらわにする。
野田氏は会見に先立ち、控室で座右の銘とする「素志貫徹」と揮毫した。同氏が首相時代に「官邸かわら版」と名付けたオフィシャルブログの2012年8月16日号には、この座右の銘について「常に志を抱きつつ懸命になすべきをなすならば、いかなる困難に出会うとも、道は必ず開けてくる。失敗する要因は色々挙げることはいつもできます。時代のせい、社会のせい、人のせい。でも、失敗の最大の要因は自分が諦めたときです。自分が諦めない限り失敗はありません」と綴っている。
現在は仲間割れした立憲民主、国民民主両党のどちらにも与しない無所属の立場を続ける野田氏は、会見の締めくくりで「未来に責任ある、緊張感のある政治を作るために、2大政党に向けてもう一度野党を結集しないといけない。残された政治家人生をそれにかける」と表情を引き締めた。ただ、参院選に向けての立憲など主要野党の選挙共闘協議については「もうタイムリミットだが、なかなか協議は進まない」と肩を落とした。
何の事ない谷垣さんだったら今のようにはなって居なかっただろう。このお二人もう少し今の安倍さん位ウソつきでずるかったらこの日本変わっていただろうと思う。
それもそうだが約束した国会議員数の削減案安倍さんどうした!