9月の自民党総裁選で、安倍晋三首相(党総裁)は、党の63年の歴史で3例しかない「連統3選」に挑む。過去には持論の強行が痛手となって立候補を阻まれたり、3選を実現しても病で退陣に追い込まれたりするケースがあり「壁」が付きまとう。一方、出馬に至れば現職が優位となることも前例が物語っている。
しかし学生らによるデモが激化し、警官隊との衝突で女子学生が死亡。憲法改正に道筋をつけるために3選も視野に入れていた岸氏は、混乱の責任を取って退陣した。党内の非主流派が安保改定への協力と引き換えに三選阻止へ動いた事も作用した。
後を受けた池田勇人元首相は高度経済成長の波に乗り64年7月に3選を果たす。10月には東京五輪が開幕して国内は沸き上がるが、好事魔多し。池田氏は閉幕の翌日に病気で辞意を表明し、翌65年にがんで死去した。
後継の佐藤栄作元首も好景気に支えられ、68年に3選、70年には前人未到の4選を実現する。57年に大蔵省入りし、長く政界に携わってきた森田一・元運輸相は「経済が好調でも佐藤氏は3選、4選ともに苦労した。目新しさを求める世論の中で、佐藤内閣への『飽き』の色彩があった」と述懐。同時に「河野一郎元農相や大野伴睦元党副総裁ら、ライバルが次々に亡くなった。長期政権の実現は、強力な対抗馬
がいるかどうかにもかかっている」と指摘する。
政権長期化の停滞感を防ぐため、1980年には連統3選を禁じる規定が導入された。ただその後はI期や2期目の途中で退陣する例が多い。国民的な人気を博し、97年無投票で再選を決めた橋本龍太郎元首も、翌98年の参院選で記録的惨敗を喫して辞任した。
例外は中曽根康弘、小泉純一郎両元首相だ。中曽根氏は2期目の満了前に86年の衆参同日選で圧勝し、1年間の任期延長が認められた。小泉氏は2001年4月に新総裁となり、8月に無投票再選。03年に3選した後、05年の郵政選挙で圧勝した。中曽根氏と同様、任期延長を求める声が党内にあったが、自ら固辞して退陣した。
小泉氏の1期目は前任者の残り期間だったため、連続3選禁止の規定には当たらなかった。17年、安倍政権下で規定を見直し、連続3選が可能になった。
自民党の歴史で総裁選に出馬した現職が敗れたのは1978年の福田赳夫元首相の1例のみだ。この際も福田氏圧勝の下馬評だったが、党員・党友による予備選挙で当時の大平正芳幹事長が福田氏らを抑えてトップになった。福田氏は「天の声にも変な声がある」と未練を残しながら本選挙を辞退した。
大平氏の娘婿でもある森田氏は「福田陣営には『現職敗北の前例はなく、勝利は間違いない』との緩みがあった。こちらは必死にやれば勝てるとの肌感覚があり、緊張感が違った」と振り返る。
これ「来月自民党総裁選首相連続3選なるか 過去3例現職有利」と題したあるローカル新聞の記事である。
確かに自民党の代表を選ぶ総裁選と言うもの、この記事の如くの熾烈な争いであったし、それが日本の代表選でもあったから、それはそれは大変に興奮したものだった事を今でもハッキリ覚えている。確かに金は乱れ飛んだが今みたいな陰湿な闘いではなかった。もっとカラッとしていた事を覚えている。そういう意味では今の権力は人間味の無い憎悪だけが残る後味の悪さだ。
上記事で違うところが一つだけある。それは自民党史に悪例を残した40日抗争で、当時の大平正芳幹事長が現職福田首相を破ったのは、森田一・元運輸相は「『現職敗北の前例はなく、勝利は間違いない』との緩みがあった。」と述べているが、それは全然違って、大平正芳幹事長が密かに当時の最大派閥の田中派の支援を受けたからに他ならなかったからだ。これで勝負がついたのである。だがその後大平さんは死ぬまで苦悩した筈だ。