安倍政権に40年前の鈴木善幸内閣時の土光臨調の土光敏夫さんのような人材がいないのが惜しまれる。

約40年ほど前めざしの土光さんと呼ばれたくらい質素だった土光さん、当時経営の危機だった東芝を再建し、その人柄から時の宰相鈴木善幸さんとその時の中曽根康弘行政管理庁長官に請われて行政改革の第二次臨時行政調査会長を任され増税によらない財政再建を実現された功績を見るに、つくづく今の政治の中での人材が枯渇してる現状は何ともし難い。
土光さんの偉かったところは私が説明するよりウィキペディアより引用したのが次である。
ウィキペディアより引用
1974年(昭和49年)、日本経済団体連合会(以下、経団連)第4代会長に就任する。以後、土光は26年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。一方で日本経済の一層の自由化と国際化を図り、積極的に海外ミッションを組んで各国に渡航した。
1981年(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任した。就任に当たっては、
首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
増税によらない財政再建の実現。
地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。
4箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。行政改革に執念を燃やして、2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ、「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務めて、行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から、「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「メザシの土光さん」などの異名を奉られた。
 
 
 
 石川島重工業の社長時代、敏夫氏は一升瓶をぶら下げて、徹夜で組合員と労使交渉した逸話を持つ。“飲みニケーション”が人心掌握術のひとつだった。
 
「親父はあまり酒が得意じゃなかったけど、会合では酒を飲んで社員からいろいろと話を聞いていた。ぼくが子供の頃、元旦に会社で飲んでいた親父が仲間を10人くらい自宅に連れてきて、ドンチャン騒ぎしたことを覚えています。会社のある佃島から、わざわざポンポン蒸気船で隅田川を渡ってね。もう80年も前になるんだな」
 
 偉くなってからも質素な生活を続けていた敏夫氏。土光家の食卓にはやはり「あの魚」が並んだ。
 
「よく聞かれるけど、たしかにメザシはよく食べていた(笑)。岡山で育った親父は、地元で取れるママカリという魚も好物で、ママカリを入れたちらし鮨を“おいしい、おいしい”と食べていた。ママカリは小さくて安い魚だけどうまかった。暮らしぶりは慎ましく、親父はいつも着物姿で、“面倒くさい”と床屋にも行かず、ぼくが髪の毛を切っていた。禿げていたから割と簡単だったけどね(笑)」
 
 敏夫氏が生きていれば、今の世に何を思うだろうか。
 
「世の中が大きく変わったから、今の政治や世相については何も言えない。ただ、世の中が豊かになるに連れ、お金が人を狂わせるようになってしまった。親父は何があっても変わらなかった。極端と言えば極端な人だったけど、私欲のなかった点は認めるわな」
SAPIO201610月号
 
 

これ「メザシの土光さんは家庭でどんな父親だったか 長男が述懐」と題した2016.09.2216:00NEWSポストセブンの記事である。

 
 
少なくとも今の安倍政権の周囲にはこの土光さんのような人材はいない。と言うより主導権を離さない安倍首相がこのような人材を寄せ付けないと言った方が適正である。
この方針が安倍独裁を生んでいると言った方が良いからである。正しく残念な結果である。これが今の政治と経済を停滞させてる元凶かも知れないからである。