不登校生徒救済でフリースクールを義務教育化の報は教師の現場からの逃避?

 「不登校の子どもたちが通うフリースクールを義務教育として認めよう」。超党派議員連盟がまとめた法案が今国会に提出される見通しになった。もっぱら学校に復帰することを求めてきた従来の国の対応からの大きな転換となる。「多様な学びが認められる」と歓迎する声が上がったが、スクールごとの独自性や子どもに合った教育メニューを尊重してほしいという注文も聞かれた。
 東京都と千葉県内の3カ所でフリースクールを運営するNPO法人東京シューレ」理事長の奥地圭子さん(74)はこの日、国会近くで開かれた議員連盟の総会に招かれた。法案の説明を聞き「学校以外での学びをようやく正規に認めてもらえる」と笑みを浮かべた。
 長男がいじめで不登校になったことをきっかけにフリースクールをつくり、今年で30年。これまで1300人以上の子どもの巣立ちを支援してきた。「学校に通えない弱い子だという社会の目があり、フリースクールの子たちは引け目を感じざるを得なかった。(法制化を機に)社会の誤解や偏見がなくなれば」と期待する。
 今後の検討課題となっている家庭への経済的支援も欠かせないと指摘する。公立の小中学校は授業料がかからないが、フリースクールは維持費などで毎月2万5000~4万5000円程度の月謝が必要で、家庭の負担は軽くない。「憲法はすべての子どもの学ぶ権利を保障している。学校以外で学ぶ子が不利益を受けない仕組みを整えて」と訴える。
 教育委員会が認定するとしている「個別学習計画」については、学校のカリキュラムを前提に作ると、さまざまな事情を抱える子どもに対応できないとし「ひとりひとりに寄り添った支援を求めたい」と注文した。
 「登校拒否と教育を考える函館アカシヤ会」(北海道函館市)代表で社会福祉士の野村俊幸さん(65)は「学校に戻すことを前提とした不登校対策の転換につながると期待したい」と話した。
 一方、1950年代から夜間中学拡充を訴えてきた「全国夜間中学校研究会」の副会長で、東京都足立区立の夜間中学教諭、須田登美雄さんは「法案の基本理念に、年齢や国籍にかかわらず義務教育を受ける機会が与えられるとようやく盛り込まれてよかった」と評価した。【佐々木洋、三木陽介、高木香奈】
 フリースクールは既存の学校になじめない子どもたちが学ぶ場だ。議員立法での成立を目指す法案は長年、義務教育制度の外に置かれていた「学び舎(や)」を国が正式に認め、支援する内容で、実現すれば画期的な方針転換になる。
 ただ、実現には課題も多い。保護者が作る「個別学習計画」を市町村教委がどのような基準や手続きで認定するのか。学習計画の作成や履行にどこまで市町村教委や学校が関与するのか。義務教育は無償だが、フリースクールに通う子どもたちの授業料を国がどこまで負担するのか。
 今後、文部科学省が具体的な制度設計を進めるが、いずれにしても一定の基準が必要になる。しかし、フリースクールはその名が示す通り、個々の子どものペースで安心して自由に学べる場だからこそ受け皿になってきた。基準がフリースクールのこうした特性を奪ってしまう可能性もあるため、制度設計には慎重な手続きが必要だ。【三木陽介】

これ『「学校外で義務教育」法案:不登校対策、転換に期待』と題した毎日新聞05月27日 23時33分の報道記事だ。

 やっと不登校生徒が報われると私は思った。唯私はそれが法制化したからで無い。そう言う子供たちを陰に陽に支えてきた、正規の教師では無い、ボランティアの人々が晴れて陽の目を見れたからである。どちらかと言えば、本当ならば学校の担任教師なりが献身的に不登校の子供たちを支えて来たのが、近年それが出来なくなったのを、この記事のような人々が補完してきたが、学校にも行かせないでと陰口をたたかれながらもここまで来たからである。昔ならば担任教師なりが自分の子供のように不登校生徒を扱い、結果的に学校に就学させ卒業させたものだからである。かく言うこの私も中学時代担任の教師にはお世話になったものである。当時の私は少しひねくれていて、高校に行かず東京に行き働きたいと言ってダダをこねた時に、それなりに成績の良かった私はその担任の教師に、「お前はまだ若い、これからがある。ここでは私の言う事を聞いて、まず高校にだけは行け」と言われ、英数国社理の5教科の参考書を預けられ、明日から受験までこれで勉強せいとこっぴどく叱られ渡された。それまではトップグループだったのが10番くらいまで成績が落ちていたから、身を粉にして受験勉強に精を出した。お蔭で高校を出、大学まで行って自分の好きな事が出来現在があると言って良い。本当にこの担任の先生のお蔭である。今はとうに世にいないが、生前は色々と人生の教えを請うたものであった。
 話を戻せば、現在の学校教師には、そのような昔のような教師等居ない。と言うよりそこまで世話を焼く教師等存在しないと言った方が良い。これも時代の成せる業か。
 私は今回のこの問題、紐解けば、現在の教師は聖職と言わずに、単なる教育職員だからではと思っている。つまりはそのために雇用形態からの逸脱が原因の教育制度改正の一環の類の一種でしかないのではと思っている。言い方が悪ければ詫びるが、立ち入った面倒臭さの回避を法制化したとも言えるのではないか。