東日本大震災の津波で大川小の遺族の賠償が認められたのは教師の公務員意識の習性の成せる技だった

 東日本大震災の津波で児童と教職員計84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校を巡り、児童23人の遺族が市と県に約23億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、仙台高裁(小川浩裁判長)は26日、14億円2658万円の支払いを命じた1審・仙台地裁判決(2016年10月)に続き、市と県に賠償を命じた。
 
 戦後最悪とされる学校災害を巡る司法判断は1審に続き、2審でも学校側の法的責任を認める結果となった。
 
 地裁判決などによると、北上川河口から約4キロ、川べりから約200メートルの距離にあった大川小では11年3月11日、地震から約50分後に川をさかのぼった津波が襲来し、児童70人が死亡、4人が行方不明となった。児童らは標高約7メートルの「三角地帯」と呼ばれる交差点に向かい、移動を始めた直後だったとみられる。
 地裁判決は、津波襲来の約7分前には高台避難を呼びかける市の広報車が校舎前を通り、教員らは大津波襲来を予見できたのに、より標高の高い裏山への避難を怠った--と指摘。津波襲来直前の教員らの「判断ミス」を過失と認定した。
 一方、控訴審では大川小が地震前にどのような危機管理マニュアルを策定していたかなど、主に市や県の事前の防災体制が適切だったかが争点となった。
 遺族側は、大川小の学区の一部が市のハザードマップ津波浸水予測区域に入っていたのに、学校側は危機管理マニュアルに具体的な避難場所を明記していなかったと指摘。「学校や市は危険を調査し、対策を取る義務を怠った『組織的過失』がある」と主張した。これに対し、市側は「過去の津波の記録や、地域住民の認識からも津波襲来を予見できなかった。震災前の対応に不備はなかった」と反論していた。
 震災の津波被災を巡り学校や行政、法人など組織の管理責任が問われた訴訟は少なくとも15件ある。2審で管理責任を認め原告側が勝訴するのは、同県東松島市の野蒜(のびる)小学校の被災を巡る訴訟の仙台高裁判決(17年4月、上告中)に続いて2例目となる。【百武信幸】
 
 
これ「<大川小津波訴訟>2審の仙台高裁も石巻市と県に賠償命令」と題した毎日新聞4/26() 14:10の配信記事だ。
 
 
 

 ケヤキ並木を彩る無数の光。昨年末、佐々木奏太(そうた)さん(21)は母と2人、仙台市中心部の定禅寺通(じょうぜんじどおり)を歩いていた。保育園の頃から両親に連れられて「光のページェント」を見た。宮城県南三陸町の自宅から車に乗り、途中で立ち寄ったショッピングセンター。ファミリーレストランで食べたヨーグルトパフェ。父の肩越しに見えた光の群れ--。行き交う家族連れに思い出が重なり、苦しくなった。そしてこう思う。「亡くなった子どもたちの家族は、もっとつらいんだろうな」

 2011年3月11日。東日本大震災津波により、児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小。2年生の担任だった父、隆芳(たかよし)さん(当時55歳)は津波にのまれた一人だ。震災から間もなく6年がたつ。当時中学生だった奏太さんは宮城教育大の3年になった。

 今年2月、教員志望の大学生14人が被災校舎を背に立つ語り部にまなざしを向けていた。同小6年の次女みずほさん(当時12歳)を亡くした佐藤敏郎さん(53)は力を込めた。

 「先生たちも一生懸命だった。でも使命を果たせなかった。彼らは津波を見て、『子どもらを守れない』と分かった時、どんな気持ちだったか想像してほしい。彼らの後悔を無駄にしないためにも、あの日から目を背けてはいけない」

 佐藤さんに促され、奏太さんは言った。「自分は生かされた命だと思う。この場所で何があったのか真剣に向き合い、一緒にできることをしていきたい」

 子どもたちの命を守れなかった父の無念と責任。同じ大川小の遺族でも、児童の遺族と教員の遺族の間に壁を感じてきた。「自分も父を失った遺族だけど、悲しみを表していいのだろうか」。そうした葛藤を経て、児童の遺族と共に大川小の教訓を語り始めた奏太さん。6年間の歩みを追った。<取材・文 百武信幸>

 
 
こっちは『ストーリー 大川小「無念と責任」胸に(その1) 教員遺族、語り継ぐ』と題した毎日新聞201735日の東京朝刊の記事だった。
 
 
 
 
 ◆大川小教員の息子 葛藤の6年 私が語っていいの?

 ドンッと突き上げられた後、激しい横揺れに見舞われ、「津波が来る」と直感した。2011年3月11日午後2時46分。宮城県南三陸町志津川中に通っていた佐々木奏太(そうた)さん(21)は、卒業式を翌日に控え、教室で最後の授業を受けていた。南三陸で育ち、幼い頃から「地震があれば津波が来る。高台に逃げろ」と教えられてきた。校舎は幸い高台にあり、校庭で点呼を受けた後、体育館へ避難した。

 町職員の母を心配した。職場が海岸に近かった。一方、父隆芳(たかよし)さんが勤める石巻市の大川小は北上川の河口から約4キロ上流に位置する。「学校での災害対応があるから、すぐには難しくても、きっと迎えに来てくれる」。そう信じて、父の無事を疑わなかった。

 停電で暗い教室に移動し、親の迎えを待った。友だちが一人、また一人と帰っていく中、心細さに耐えながら夜を明かした。翌12日、美術室のベランダから津波にのまれた街を見下ろし、被害の大きさを目の当たりにした。「母はだめかも……」という思いが、ふっと頭をよぎった。それでも地区住民の避難所となった校内で、奏太さんは同級生と一緒に食料を運び入れて炊き出しを手伝った。

 14日の朝だったろうか。内陸部の同県登米(とめ)市に住む叔母が志津川中に来た。奏太さんの両親と連絡が取れず、学校へ来てみたのだという。いったん登米に寄り、ラジオで聞いた「大川小孤立」の情報を確かめるため、2人で父を捜しに石巻へ向かった。だが、堤防が決壊していて車では学校に近づけなかった。

 その翌日。大川小付近の住民が多数避難する公共施設で、同小の校長と会った。地震発生時に校長は同県大崎市におり、学校関係者を捜し回っていた。「現時点での生存者です」。紙切れを見せられ、奏太さんの頭は混乱した。そこには児童の名前と学年が走り書きされていたが、父の名前どころか、担任していた2年生の名前が一つもなかった。

 母と再会できたのは16日夕。高台に避難して津波を逃れた後、避難所の運営に追われていたという。志津川中へ迎えに行ったのは奏太さんが去った数時間後のことで、一人息子の無事を確認すると、避難所に戻っていた。「父も情報がないだけ。どこかに逃げている」。奏太さんは自分に言い聞かせて大川小周辺を捜した。だが、泥の中から児童の遺体が相次いで見つかっているのを見聞きし、絶望的な現実が少しずつ積み重なっていった。

 中学を卒業した奏太さんは、通学路線が不通となった同県気仙沼市の高校に入学式だけ出席し、バスで通える登米市の佐沼高校に編入学した。被災した同級生は少ない。「父は今も行方不明」と言えば周りは気を使うだろう、本当のつらさも分かってもらえないと思い、口に出せなかった。ふさぎ込みがちになり、担任からNPO法人が毎年夏に開いている「次世代リーダー育成」の研修への参加を勧められた。8月、香川・小豆島の会場で、全国から集まった同世代を前に、奏太さんは父のことを話した。心が少し軽くなったという。「ちょっとずつ、話してもいいのかなと思えた。誰かに話したかったんだと思う」

 復興支援で東京や関西から南三陸に来ていた学習支援ボランティアの存在も大きかった。少し年上の大学生だから気張らずに話ができた。「教育大に行こう」と決めたのは、その時の体験がきっかけだ。「父と同じ道」というよりも「自分より年下で震災を経験した子どもたちはもっと傷ついているはずで、そうした子の力になり、一緒に未来を考えたい」という思いが強かった。

 震災半年を迎えた9月。佐々木家は行方の分からない隆芳さんの死亡届を出し、葬儀を営んだ。実際に遺骨と対面できたのは発生から1年4カ月後。北上川河口から約3キロ沖で見つかっていたが、損傷が激しく、家族の提供したDNA型と照合して最終的に身元が特定された。

 奏太さんは、同じ大川小の遺族でも「児童遺族」と「教員遺族」を分かつ壁を感じていた。大川小の児童は教師の指示に従って校庭に約50分間待機し、近くの裏山ではなく、新北上大橋の方へ避難を始めた直後、津波に襲われている。

 「なぜ大川小だけ犠牲者が多いのか」「子どもたちの命を守れなかった理由を知りたい」。我が子を失った遺族の多くが真相究明を求めた。石巻市教委の「ここまで津波が来ると予想できなかった。裏山は倒木があって危険で、斜面も急で登れなかった」という説明に、児童の遺族は「倒木はない。子どもたちはシイタケ栽培で登っていた」と反論した。児童を迎えに行った保護者の「『津波が来るので高い所に逃げて』と先生に伝えた」という証言もあり、不信感を募らせていった。

 一方、宮城教育大に進んだ奏太さんは、震災を語り継ぐ学内の団体に所属してボランティア活動を始めていた。14年夏、大川小の被災校舎に中学生を案内したが、内心では「教員遺族の自分が語っていいのか。児童のご遺族はどう思うだろう」と不安だった。自分にも父を亡くした悲しみがある。だけど、それを表していいのか、とためらった。

 16年10月26日。仙台地裁前の坂を駆け下りてきた児童遺族の男性は、涙をこらえながら横断幕を広げた。「勝訴」「学校・先生を断罪」の文字。児童23人の父母ら19遺族が石巻市宮城県を訴えた損害賠償訴訟で、判決は総額14億円余の支払いを市と県に命じ、避難決定の遅れと裏山に逃げなかった2点について、現場にいた教職員の過失を認めた。

 断罪--。原告が「多くの教育関係者が心に刻んでほしい」という思いを込めた言葉は、後に反発を招いた。控訴の方針を固めた市長や知事は「亡くなった先生を責めるのはあんまりだ」などと言い、批判や中傷された遺族もいる。

 奏太さんは冷静に受け止めたという。「断罪」は現場にいた父たち教員ではなく、広く教育現場に立つ先生たちに向けたものと理解したからだ。「判決を聞いて、やっぱり司法も『学校、先生は子どもたちを守る責任がある』と認めたんだ。受け止めなきゃと思いました」

 ただ、横断幕にあった「先生の言うことを聞いていたのに」という文字はさすがに胸に突き刺さった。
「どちらも同じ被害者」

 三男の雄樹さん(当時12歳)を亡くした佐藤和隆さん(50)は、原告団の中心として積極的に声を上げてきた。被災地見学に訪れる企業や団体を案内し、当時の状況や遺族の思いを伝える語り部活動も続けている。大川小に関心を寄せる書き込みをした人にはフェイスブックでメッセージを送る。昨年5月、「友達申請」した相手からの返信に驚いた。

 「言い出しにくいですが、私も“遺族”になります。大切なお子様を亡くされたご遺族の皆様の事を考えますと、簡単には言い出せません」。奏太さんからだった。佐藤さんはすぐに返信した。「あれから5年が過ぎ、最初は先生たちのことも恨みました。でも色々と分かり始めて先生達も同じ被害者だと思えるようになりました」

 2人が対面したのは判決を約1カ月後に控えた16年9月30日だった。日が沈んで間もない午後6時半ごろ、佐藤さんの職場を訪ねた奏太さんは、2階の事務所で二人きりになると、「今日はお時間をいただき、ありがとうございます」と頭を下げた。やや緊張していた。

 「俺も教員の遺族が、あの日のことをどう受け止めているのか知りたかったんだ」。佐藤さんの声は穏やかだった。「厳しいことを言うけど、子どもたちの命はお父さんたちが守るべきだった。守るべき立場の先生と、守られる子どもの立場は違う。乗り物でいえば、ハンドルを握っていたのは先生で、乗せられていた子は従うしかなかった」

 佐藤さんはこうも言った。「あなたのお父さんは『山に逃げた方がいい』と言っていたと聞いている」。それらしきことを聞いてはいたが、面と向かって断言されたのは初めてだった。奏太さんは自分が教育大で学んでいること、そして志津川中で被災したあの日、「これは訓練じゃないんだ」と怒声を上げながら守ってくれた先生のことを話した。「父を思うと残念ですが、自分も先生が子どもを守るべき立場だったと思っています」

 1時間を過ぎて、少し打ち解けてきたころ、奏太さんは脇にあるパソコンの画面に目を留めた。雄樹さんたち大川小の子どもの姿があった。運動会や学芸会の写真がスライドショーのように映し出されていた。佐藤さんがつぶやいた。「雄樹は先生に『山に逃げよう』と言っていたと聞いた。ここにいたら死ぬ、怖いと思い、友だちが保護者に迎えられ、校庭を離れていく中で『お父さん、迎えに来ないかな』と思っていたと思う」

 奏太さんの目から涙があふれ、止まらなくなった。「俺の話に心から向き合ってくれている」。そう感じた佐藤さんは「後ろめたいと思わず、大川小であったことをしっかり語っていってほしい」と望み、帰り際に「またな」と伝えた。

 暮れも押し迫った12月23日、奏太さんは知人の大学生を被災校舎へ案内することになり、佐藤さんに語り部を依頼した。児童遺族と教員遺族が並んで大川小を案内するのは初めてだった。言葉をかき消すような強風が吹く中、奏太さんは言った。「父もきっと無念だったと思うし、その瞬間を考えたら苦しいですが、子どもたちの小さな命が失われた事実とつらくても向き合わないといけないと思い、ここまで来ました」

 15年春の大川小の卒業アルバムには卒業生と、その年に中学へ進むはずだった震災当時2年生のあどけない顔が一緒に並ぶ。隆芳さんの顔写真もある。20人のうち、迎えが来るなどして学校を離れ、助かったのは3人。1、2年時の行事写真に続いて、児童のページが1人ずつあった。「好きな食べ物 カップめん」「七夕願い事 さっかあぼうるをたかくあげられるようになりたい」。アルバム作りには亡くなった児童の保護者も加わり、本人が描いていた夢を書き込んだ。

 長男悠登さん(当時8歳)を亡くした加納美智代さん(47)は、家庭訪問に来た隆芳さんを懐かしそうに振り返る。悠登さんがピアノを習っていると聞き、「うちの息子もね、ピアノ弾くんですよ。男の子が弾くのってかっこいいですよね」と笑っていた。「柔らかい表情で、子どもが大好きなのが伝わってきて。ピンクのネクタイが似合う優しい先生でした」

 長男の来旺(らいお)さん(当時8歳)を亡くした佐藤ゆり子さん(44)は、給食の時間にピンクのエプロンを着けていた隆芳さんの姿が目に焼き付いている。「学校に虫捕り網を持ってきていいと言われて、来旺はとても喜んで。『怒られるから』って宿題もちゃんとやって。怖いけど好きな先生と言っていました」。震災の年の4月、来旺さんに線香を上げに来た奏太さんを覚えている。「顔が似ていて、先生の息子さんだってすぐ分かりました。大人になって、ますます似てきたなって思います」

 2年生児童の遺族ら保護者が企画して、一昨年の夏、隆芳さんの還暦祝いが石巻市内のレストランで開かれた。母と一緒に招かれた奏太さんは「自分の知らない、学校での父の姿を教えてもらえた」と感謝している。生真面目なはずの父が、保護者会の2次会で美川憲一の物まねをして「さそり座の女」を歌い、みんなを驚かせたという。

 記憶の中の父はいつも子どもたちと一緒。失われた未来を思うと胸が痛くなるが、先生としての顔を知り、笑顔の父を思い浮かべられるようになった。昨夏に受けるはずだった教育実習は、教壇に立つことに不安を覚えて断念した。それでも、中学生の放課後学習の支援員として活動しているとき、自然と笑みがこぼれてくる。

 教員にこだわらず、地元の復興に貢献できる道へ進みたいという気持ちが今は強い。3月下旬、首都圏から訪れる小学生とその保護者を旧大川小に案内する予定だ。「災害を自分の事として受け止めて」。語り部として立つのは2年生教室の前。父と子どもたちが元気だった頃の姿もしっかり伝えようと思っている。
 
 ◆今回のストーリーの取材は  百武信幸(ひゃくたけ・のぶゆき)(宮城県石巻通信部)
 2005年入社。秋田支局、東京地方部、宮崎支局などを経て15年1月から現職。11年の東日本大震災発生直後に大川小児童遺族と出会い、同小の取材を続けている。昨年は子ども2人を亡くした父と5年間交流したストーリーを手掛けた。
 
 
 
思えば胸が張り裂けるくらい悲しい津波被害である。
私はその3年後常に行っていた松島のさかな市場で、時の津波の酷さを市場の壁の津波後で再確認した。店員さんが言っていた。「私たちは小さい時から津波が来る時は何も考えずに高台へ逃げろと教えられていた」と言いながら、「何故大川小の先生方は、津波が来る方に逃げたのか、バカな人たちだ、わざわざ死にに行ったに等しい」と口々に話すのを聞いた。何故こんな簡単な事を守れなかったのか。
私は山で育ったから、津波なんてどんなものなのかさえ知らないが、冷静に落ち着いて考えてみると、やはり先生方も公務員の役人だと思った。何故か!何で反対方向に行ったのか?それは長年の役人根性の習性である。とっさでも生死を考える前に責任上の子を親に引き渡すと言う責任である。とにかく責任上親に子を渡してからと考え、それを終えてから安全を考えると言う習性である。これは彼ら責任を忠実に守ろうとして、生を失ったのである。そう考えれば何で反対方向に行ったかの謎が解けるのである。彼らにすれば子の親は高台には居なく、居るのは川下の市街地だったからである。