米大リーグから広島に復帰した黒田はやっぱり日本人だった本当にありがとう黒田選手

 「わしは野球には興味がないけぇ、サッカーファンなんよ。じゃけぇ、地元テレビ局の人と一緒に“彼”が来てくれたときも、体の大きな無口なカメラマンじゃあ思おとった。でリラックスさせるために言うたんよ、『あんた、テレビで見たことあるよ』と。でも、黙って頷くだけじゃった(笑)」
  昨年10月25日、広島市の土砂災害で被災した安佐南区緑井8丁目に住む野間茂氏(68)は、駆けつけてくれたボランティアの人たちとともに半壊した自宅の片付けに追われていた。休憩時間に彼らを自宅に招き入れ、被災当時の写真を見せていた。そんなとき、冒頭の2人が訪ねてきた。その“体の大きなカメラマン”こそ、8年ぶりの広島復帰を決意した黒田博樹(39)だった。
 「しばらくすると、みんながざわつきだして『ウソっ?黒田さん?』と気づき始めたんよ。もうビックリじゃ。皆が喜んで彼を取り囲むようじゃった。忘れられんのは、若い女性が『今年もアメリカで頑張りましたね』と言うたんよ。そしたら寡黙だった彼が、人一倍大きな声で、『いえ、本当に頑張っておられるのは、あなた方です!』と言うたんよ。もう、どんだけすごい人じゃろうか」
  年俸約21億円を蹴って、4億円の広島復帰に米メディアは「クレイジー!なぜ?」と報じた。だが、交渉を続けてきた鈴木清明球団本部長は、復帰の理由を「ファンへの使命感」と話した。もっとも長く取材を続けてきた地元テレビ関係者は「理由はひとつだけではない」としながらこう語った。
 「日本に帰るなら、最後は広島でとの思い。監督が緒方孝市に替わったことなど理由はさまざま。このオフには3回も交渉しとる。それまで複数回交渉することはなかったんじゃ。じゃけぇ、黒田のなかで変化があったことは事実じゃろう。最後の最後に後押ししたんは、本気になった球団の誠意もあるけど、直接ファンの声や被災地の現状を見たことが大きいじゃろうね。あいつはそういう男よ」
  野間氏は’70年代半ばに戦時下のベトナムを訪れ、難民キャンプで奉仕活動をした経験を持つ。
 「作業いうんは、ホント大変なんよ。とくに土砂の撤去はね。若い子が顔を真っ赤にしながら、倒れる寸前まで頑張ってくれとったんよ。無駄口叩かんし、ピ~ンと張りつめたなかでね。でもね、黒田さんが来てくれてからは、えらいつらい作業もみんな、笑顔でこなしていくんよね。ボランティアいうんはいろいろな形があるけど、やっぱりすごい人いうんは、もうそこにおるだけで周りの人を力づけるんじゃね」
  大好きだった街が無残にも破壊された光景に言葉を失い、立ちすくんだ黒田。その後にやってきた被災者やボランティアの人たちとのふれあい。なによりも義を大切にする男の心の中を想像するのは難しくない。
  今年、広島は被曝から70年、’75年の初優勝から40年の節目の年を迎える。「苦しいときに喜びを与えられるなら最高のモチベーションになる」。自らの言葉を地でいく決断だ。

これ『黒田「21億円捨て広島復帰」決めた広島土砂災害の現場』と題した週刊FLASH1月27日号記事である。

 恐らく誰しもが思う、21億円を蹴った男だからと注目するのだろうが、私は違う。それをこの記事が物語っている。黒田は無口だ。いらん事しゃべらん。だからこそ我々は色んな憶測で彼を見て考える。が少なくとも当の黒田自身には、この決断には、金の事一瞬無かったのではないかと私は考えた。プロでありせばその評価は確かに金である。だが金と言うには彼はハングリーでは無かった。大リーグでの待遇でそれなりに満たしてたのではなかったのか。我々のように思うのは、普段金が無くて宝くじみたいな夢を追ってる者ではないのか。イチローや松井それにこの黒田とそれなりに金に満たされた者たちは違うのではないか。その時にこの思い出の場所の災害や被災の現場である。また彼にラブコールを叫び続けた懐かしの広島である。黄昏に近づいた現状を考えても、タイミング的にはグッドだったのではと私は思っている。やはり住めば都と言いながらも、最後は日本魂が蘇ったのだと私は思いたい。本当にありがとう黒田選手。