全国学力テストで下位校の学校名を公表した静岡県川藤知事に拍手!

全国の公立小中学校で4月に実施された「全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)」の結果が、発表された。その都道府県別の調査結果は、国立教育政策研究所のウェブサイトで確認できるが、成績が悪かった都道府県の関係者にとっては、心地よいものではないようだ。
 「私はほとんど絶望的な気持ちになりました」。県のトップがそんなおおげさな言葉を口にしたのは、静岡県だ。「なんでも日本の真ん中あたり」というイメージのある同県だが、小学6年の「国語A」については、平均点が全国最下位となった。それを受けて、川勝平太知事は9月9日の定例記者会見で「下位校の校長名を公表したい」と表明したのだ。
 ところが、同テストの実施要領では、序列化や過度な競争を避けるための配慮として、学校名を明らかにした成績公表を行わないように定めている。校長名を公表すれば、おのずと学校名もわかるはずだ。そうだとすれば、川藤知事の方針は、実施要領に抵触することになるのではないか。
 そのようなことから、川勝知事の考えに対して、ネットでは「吊るし上げだ」という批判の声もあがっている。はたして、県が実施要領の趣旨を無視して、校長名を公表することは可能なのだろうか。秋山亘弁護士に聞いた。
●校長名の公表は、学校名を公表するのと同等だ
 「どの学校の校長が誰かという情報は、地元の人であれば知っていることも多く、また、調べようと思えば容易に調べられる情報です。
 したがって、『下位校の校長名を公表する』ということは『下位校の学校名を公表する』のと等しく、『学校名を明らかにした成績公表を行わない』という学力テストの実施要領に反すると言えます」
 ――すると、校長名公表は問題と言える?
「そうですね。学力テストは、各都道府県が実施するテストではなく、文部科学省が予め定めた実施要領に基づき実施し、これに各市町村の教育委員会や各学校が調査に協力する形式のテストです。
 したがって、学力テストの実施及びその結果の公表にあたっては、あらかじめ定められた実施要領を守ることが当然の前提となっております」
●無理矢理公表すれば、テストの実施に混乱が生じる可能性もある
――実施要領にはどう書いてある?
 「実施要領には、序列化や過度な競争を避けるための配慮として、学校名を明らかにした公表をしないよう記されています。
 その趣旨は明確で、実施要領においては『学力テストの調査結果は情報公開請求の対象外とする』ことまで明記されています。したがって、県知事の判断で実施要領の定めに反する公表をすることは許されないものと考えられます」
――違反しているのを承知の上で、公表した場合はどうなる?
 「かつて、全国中学校一斉学力調査(学テ)を巡って、『旭川学テ事件』という裁判がありました。この裁判は、学テが教師の教育の自由を侵害するかどうかについて争ったもので、1審と2審では、学テが『違法』と判断されました(最高裁は合法と判断)。
 事件を受けて、学力テストに協力しないという教育現場も現れた結果、同様のテストは1965年を最後に、2007年まで実施されなかったという経緯があります。
 もし仮に、実施要領違反の公表が強行された場合には、そのときのように、学力調査の現場に重大な混乱が生じることも懸念されるのではないでしょうか」
(弁護士ドットコム トピックス)
【取材協力弁護士】
秋山 亘(あきやま・とおる)弁護士
民事事件全般(企業法務、不動産事件、労働問題、各種損害賠償請求事件等)及び刑事事件を中心に業務を行っている。日弁連人権擁護委員会第5部会(精神的自由)委員、日弁連報道と人権に関する調査・研究特別部会員。
事務所名:三羽総合法律事務所

これ『「テスト下位校の校長名を公表する」 静岡県知事の意向は「実施要領違反」なのか 』と題した9月13日 16:51  弁護士ドットコムを紹介したMIXIニュースの記事である。

 どうして教育問題だけがこのように大げさに取り扱われるのだろうか。私は戦後の日本の教育間違っているように思えてならないのである。教育は神聖なものであると言う事は、もはや現代においては、偶像でしか無いと言うのが私の考えである。何故なら我が国においては、戦後の急激な経済復興に照らし合わせた時の意識と状況があまりにも変わる過ぎたからであると同時に、その速度がその考えを追い越してしまったからである。例えが悪いかもしれないが、国民意識のマーケット原理が変わりすぎてしまった。がしかし、それに教育行政が比例せず、依然とした旧体制が維持されてしまったからである。全ての教育が教育行政に担保を取らってしまったからである。現代において教育のためと言えばすべてが許されたのはそのためでもある。時代は変わったのである。教育行政に児童生徒・学生に通知書・内申書があると同じように教師に対してもそれがあっても不思議ではないのである。私は何度でも言ってるように、世の尺度には「金」と言う言葉があり、物差しの単位が「金」である事は度々言って。教師も聖職と言う言葉の間(はざま)に現実的には職業としての教師であり、その価値は、俸給によって表されているのも事実である。そう言う意味合いからしても、学業の良し悪しはその教師に対する、通知書・内申書であっても然るべきである。その一環として、全国学力テストであって何故いけないのか。私の考えに「努力は天才には勝てない」と言う言葉がある。天才は天才であって、何もしなくても理解出来、非天才は努力する事に依って、自らの事と言って来た。教師も努力する事に依って、児童・生徒の潜在能力を最大に引き出す使命を持つ、その結果が全国学力テストの結果であるとも言ってよいのである。だからこそ、その結果は公表されて然るべきである。序列化や子供のために良く無いとするのは詭弁であり、教師自身の我儘である。自分自身が評価されるのが嫌なだけのエゴと言えるし、それが怖いだけである。自分の成果を評価してもらうのに何をためらうのか。不思議な人種である。私から言わせればそう言う教師に教育される児童・生徒の方がかわいそうであると思っている。教育の世界しか知らない教師たちは半ば、変人としか思えない。
 言い過ぎだと思われる方々はどうぞどしどし反論して頂きたい。