全国学力テストの学校別成績公表を拒む教師たちは、自らの成績を知られたくない教師のエゴである

 今年から解禁された全国学力テストの学校別成績公表は、少数の自治体にとどまることが共同通信のアンケートから見えてきた。さまざまな学力向上策を模索してきた教育委員会にとって、公表による学校への「外圧」は魅惑的な手段に映るが、各校がランク付けされることへの懸念も根強い。悩みを抱えたまま「今年は様子見」という 教委も少なくなさそうだ。
 「うちの学校は成績が良くないんでしよ」。大分県にある公立中学の三者面談。3年生の母親の一言に、担任の男性教諭は驚いた。大分県教委が小中学校を対象に実施する独自の学力テストでは、正答率が一定の基準を超えた学校は名前が公表されるが、この学校の名前はなかった。
 ■他校の参考に紹介
 大分県の目標は「九州トップレベルの学力」。全国学力テストの成績は平均値に近づいてきたが、目標にはまだ届かない。そこで、2年連続で全国平均を上回った学校の名前を挙げて取り組みを紹介し、他校の参考にすることにした。
 県教委の担当者は「成績の良い学校が分かれば、そこで視察や研修を実施してノウハウを広められる」と強調する。
 男性教諭は、生徒が塾で「うちの学校はバカだから」と自虐的に話題にしているとも耳にした。「全国平均に届かなくても、努力して成績を上げている生徒はたくさんいる。比較されることばかり増えれば、子どもは自分の学校が好きになれない」とやり切れない。
 こうした懸念を反映してか、公表に否定的な教委が多数を占める。昨年示学校の「国語A」が全国最下位になり、川勝平太知事が上位の小学校の校長名を公表した静岡県でも、情報公開をえる知事に同調する市町村の教育委員会は少ない。
 静岡市教委は「このテストで測定できるのは学力の一部だけ。公表すれば学校教育の目的が良い点数を取ることに偏重する」と話す。同市立小の校長も「知事が口を出す前から、どこの学校でも学力を上げようと努力している」と反発する。
 京都市教委も慎重だ。学校が保護者や地域向けに成績を公表する際も、平均正答率を明示しないよう指導した。担当者は「各学校がホームページに出した数値を集めて公開する人が現れたら、数字だけで学校を比較することが簡単にできてしまう」と、文科省が定めた規則の抜け道を恐れる。
 「公表に前向きな自治体も他の自治体の出方をうかがって『今年は様子見』が多いのではないか」との見方も出ている。
 今後、学校別の公表を目指す自治体は広がるのか。岡山県教委によると、27市町村のうち岡山市など10前後の教委が公表を予定。県教委としては公表しないが、全国学カテストの順位が低迷しているとの危機感は強い。
 今年から、出題形式をまねた新テストを県独自に導入。学力向上に成果を上げた学校には100万円を交付する“アメ”を準備するなど学力対策に本腰を入れている。
 公表自治体増加かある町教委関係者は「県が学力向上のために市町村の尻をたたいていると感じる。『成績公表に効果があるかも』と期待して導入する自治体が出てくるだろう」と話す。
 学力テストに詳しい梶田叡一前兵庫教育大学長は 「成績の悪い学校に『このままではいけない』という意識を持たせようと、公表する自治体が増えるかもしれない」と指摘。保護者は成績の振るわない学校を避けようとする傾向があるため、「公表するなら教員配置を手厚くするなど支援策をセットにすることが不可欠だ」と注文を付けた。

これ『「外圧で学力向上」「教育目的に偏り」悩みを抱え様子見か』と題したあるローカル紙の17日日刊の記事である。

 私はこの記事を読んで笑うしかないと感じた。このての問題には子供たちの生の声がいつも反映されていない。子供たちはどう考えているのか、いつも置き去りである。このような問題はいつも教育の一環として、子供に良く無い、序列化する等いつも大人たちの言い分しか現れない。事実このように公表されて困るのは子供たちではなくて、それに携わる教育委員の方々や教師の方が自らの査定に響くからなのではと私は思っている。例えば「世は常に金」と言えば、全ての方々は表向きは反発するが内実は納得してるのではないか。何故ならそれらに異議を唱える方々も自分に合ったと思われる俸給を頂いてるのではないか。それらを決定するには何を基準?ここまで言えばすべての方に理解して頂けると思う。結論を申せば私は積極的に成績を公表して、その結果を踏まえた教育を学校長をはじめとする教師の方々に実践して頂きたいと願っている1人である。一番良い例がプロ野球の契約制である。成績が悪ければ年俸は下がるし、成績が良ければ当然に上がる。全て100%良い事だらけとは言わないが、すべての人間が納得し得る制度ではある。
 余談だが私は学生時代より、両親や学校の教師より批判されて来た考えを持っている。それは「努力は天才には勝てない」と言う言葉である。私に言わせれば天才は黙ってても天才だと思ってるし、天才は努力する必要等無いのである。だからと言ってそれに甘えるなと言う事のみである。しかし凡人は努力しなければ凡人にもなれない。いくら努力したって天才にはなれないのである。唯一この教えの正しい事は、「努力は天才に勝つ」には勝てはしないが努力する事によって自分の能力の最大限の力を引き出す事だと私は思っている。こんな事正直に問題にして考える事では無く、お前はバカだと廻りの皆に私は言われ続けて来た。
 話を戻せば教育委員会も教師も積極的に子供たちの成績を公表してもらい、教師もそれを自分の1年間の通知表と思い、考え直す指標にしたらどうかと私は思っている。
何か日本特有の「本音と建て前」文化の象徴か。また教師は子供の成績を担保に取っている。そして子供のため、
教育のためと言う美麗句を盾に自らを正当化してるようで私にとっては非常に不愉快この上ない。