あるローカル新聞に載った元東大学長佐々木毅さんの記事を紹介する

令和はどのような時代になるのであろうか。令和という元号には、多様な生き方が調和することへの期待が込められているといった解説もある。しかし実際の歴史は、平成を考えても分かるように期待通りにいかないことも珍しくない。
 私の世代が子どもであった昭和20年代はお世辞にも期待に胸を躍らせるような時代ではなかった。だがそれはやがて日本の歴史上、未曽有の経済の高度成長の時代につながっていった。完膚なきまで     にたたきのめされた敗戦国が20年後には世界第2の経済大国になるなどということは、期待を超えた奇跡であった。なにぶんにも奇跡であったため、その成功をどう扱ったらよいか右往左往しているうちにバブルにはまり込み、膨大な富をむなしく失ってしまったということであろう。
 平成時代は冷戦終結とともに始まった。当時の日本は経済中心の時代が到来したと自信満々であり、「世界に学ぶものなし」と高をくくっていた。それから30年余りたって、経済同友会の前代表幹事が平
成は「経済敗戦の時代」と総括するに至ったのは注目される。
 言うまでもなく、日本は経済規模で中国に追い越され、その距離は広がるばかりである。世界を席巻するような日本発の商品やサービスの話題を耳にすることはなくなった。周知のように昨今は、米中の争いに振り回され通しという状況である。
 第2次世界大戦後の日本社会は、経済によりどころを見いだしてきた。しかし、令和時代も同様に経済成長に期待を抱き続けことは容易ではない。眼前にあるのは、いよいよ激しくなる地域間格差であり、労
力の減少を伴う少子高齢化であり、膨れ上がる一方の財政赤字である。将来の不安要素ばかりが次々と思い浮かぶ。
 経済成長によってこれら難題にそれなりの解を与えようとしたのがアベノミクスであった。しかし、その効果が極めて限定的であったことは今や明らかである。
 その上、先進国におけるポピュリスムの台頭を背景に国際関係が明らかに不安定化、流動化するに至った。自国第一主義の台頭は国際協力を困難にし、大小の紛争リスクが世界に拡散され、さらに米中の覇権争いが世界を巻き込みつつある。それらはやがて軍事的な緊張につなかっていく可能性がある。
 日本にとって、最近の中国の巨大化、強大化は大きな環境の変化である。しかも中国は独裁政権と技術革新、経済成長との組み合わせが可能であることを示す実例として、自由で民主的な体制優位説に対抗して存在感を高めつつある。
 米中対立が激しくなれば、日本は両者の対立の最前線で、板挟み状態に追い込まれかねない。単純なグローバリゼーションの時代は終わったようである。
 このように令和時代には積年の国内的課題に加え、国際的難題が押し寄せてきそうである。これらをうまく切り抜けるだけではなく、それなりに解決する政治力が問われることは言うまでもない。平穏な国際関係に寄りかかって、重要な国内的案件を先送りするような政治は終わらせなければならない。
 経済頼みの政治は平成時代にすっかり過去のものとなった。アジアで最も古い立憲国家にふさわしい政治の質こそが令和時代の日本の鍵を握るだろう。
 軍事でも経済でもなく、政治の質が日本を救った時代がかつてなかったわけではない。例えば、作家の司馬遼太郎は「明治はリアリズムの時代でした。それも、透き通った、格調の高い精神で支えられたリアリズムでした」と述べている。これこそ小説「坂の上の雲」などを貫く主題である。
 明治以後、このリアリズムが失われ、それとともに日本は壊滅的な危機への道を歩むことになったというのが、その盛四の意味するところであった。
 現在の日本にもリアリズムの喪失という同種の病がないとは言えない。リアリズムの喪失は過剰な自信や自己満足といった形を取る。こうした病に陥ることなくリアリズムにこだわり、それに真摯に心を向けるところから、令和の時代が出発してほしいものである。(元東大学長)
 
 
これ「令和時代への期待」と題したあるローカル新聞に載った元東大学長佐々木毅さんの2019/5/30 朝刊の記事である。
 
 
いつもそうだが、同じ新聞等マスコミ報道を見ていながら、やはり我々凡人とは違う視点に感心する。それがファンとなる所以なのだが・・・・・。
もちろんこれが政治の中枢にいた人間(ひと)なのだろうといつも思う。また今度載った時再度紹介したい。