小泉進次郎と言う男を将来の宰相候補と呼んだのは誰だ! 反省せいっ!

 去る102日、菅義偉官房長官が発表した第4次安倍改造内閣の閣僚名簿に、小泉進次郎衆院議員の名前はなかった。一部報道では、自民党筆頭副幹事長の留任が取り沙汰された瞬間もあったが、結局は要職に起用されなかった。
 例年この時期に行われる内閣改造・党役員人事が近づくたびに、マスメディアは小泉氏の入閣待望論をしきりに流す。そして、いつも期待は裏切られる。第2安倍内閣の発足からまもなく6年、「自民党のプリンス」を巡るマスコミの空騒ぎは、「村上春樹ノーベル文学賞」と似たような秋の風物詩になっている。
 
37歳の人気者は「逃避行」を続けた
 
「オーラが消えた」
 こう評する人がたくさんいた。
 
 9月の自民党総裁選では、「安倍か、石破か」の意思表示を投票が始まる10分前まで避けた。夏の間、同僚議員の説得工作やマスコミによる取材攻勢から逃れるかのように、37歳の人気者は、インド、ニュージーランド、新潟、長野、沖縄と「逃避行」を続けた。
 政党人たるもの、党首選となれば早々に旗幟を鮮明にして権力闘争に身を投じるのは古今東西の常識である。事前の意思表明は、年間4000円の党費を払って党組織の屋台骨を支えてくれている党員に対する最低限のエチケットだろう。
 ましてや、森友学園加計学園にまつわる不祥事を「平成政治史に残る大事件だ」と指弾し、身内の政権に説明責任を迫った急先鋒である。
 議員になって9年間、彼の一挙手一投足を眺めてきた私が考えても、400人以上の国会議員がいる党内でひとり頑なに洞ヶ峠を決め込む様は「変人」の域を超えていた。
 一連の言動には、一般人には解りえない何かがある。「自民党のプリンス」に特有のものが小泉氏を苦しめ、優柔不断と支離滅裂を生んだのではないか。ならば、彼の心理を読み解くカギは「プリンス」にある。私はそう思い、「プリンス」と呼ばれた男たちに会いに行った。
 
宮沢内閣では戦後史上最年少で入閣したプリンス
「小泉君には悪いことをしました」
 そう告白するのは、船田元氏(64)である。
 元衆院議長の祖父、元栃木県知事の父を持ち、25歳で衆院初当選を果たした船田氏も今から30年ほど前、「自民党のプリンス」と呼ばれ、出世街道を歩み、宮沢内閣では戦後史上最年少(当時。391カ月)で経済企画庁長官として初入閣。当時の最大派閥・竹下派の重鎮だった小沢一郎に重用され、93年には新生党結党に参加すると、米タイム誌の「21世紀を動かす世界の100人」に選ばれた。
 昭和末期からの10年間、人は船田が必ず首相になると信じて疑わなかった。90年代の船田氏は言うなれば「平成初期の小泉進次郎」だった。
 その船田氏が、なぜ小泉氏に「悪いことをした」と言うのか。
 
 詳しくは、1010日発売の月刊『文藝春秋11月号に10ページにわたって掲載されている拙稿「小泉進次郎『プリンス』はなぜ変節したか」をぜひお読みいただきたい。
 さて、今回、「文春オンライン」では、そのスピンオフ企画として雑誌に収まりきらなかったインタビューを紹介する。
 第1回は、船田元氏。
(聞き手・常井健一)
 
注目させるオーラを持っている
――船田さんから見て、「小泉進次郎」とはどんな政治家でしょうか。
船田 やはり、党の会合に彼が来ると、「あ、来たな」とわかります。場が光るというか、みんなの顔が明るくなる感じがする。あまり政治経験は長くないですが、人をひきつけたり、注目させるオーラを持っている。若い人としては珍しい。
――今の彼と同じ30代後半、船田さんは史上最年少入閣を果たし、永田町のスポットライトを独り占めにしていました。
船田 私なんかは全然。たまたま小沢一郎さんに私を買っていただいて、小沢さんの代わりに色々なことを動かしたことはありますが、小沢さんが背後にいたので、あれは決して自分の力ではありません。
 私はたまたま25歳で初当選したので、お兄さん世代、お父さん世代のような人たちが初当選同期という中で若いうちから注目されましたが、半分は嬉しい、半分はやっかみとか恨みとか妬みとかあるんだろうと気になってしまいましたね。
 例えば、新聞を開くと同じ会合に出ていた同期の中で私の名前だけが出ていることがあります。そういうのも、半分嬉しいけど、出たおかげでマズイなというか、ちょっとこれは後でフォローしないとヤバイなという気持ちをいつも抱えていました。それで、自分自身をコントロールしたり、ある時はブレーキをかけたりしました。
 自分から積極的に食事に誘って全部おごってみたり、党内で部会長になった時には、人事権を多少なりとも持つので、あの同期を副部会長につけようとか、部会長代行につけて「私の片腕でがんばってくれ」とか、引き上げるようにしました。
 
「総理の椅子」を考えていなかったというと嘘になる
――やはり周囲の関心は血統に集まるものでしょうか。
船田 確かに、順調にやっていた頃は、「衆議院議長の孫」、「最年少」ということで珍しがられた時期はありました。地元の人も「必ず総理大臣になる」と言ってくれて。今は、お詫びしないといけないんですが。
――人気絶頂の頃というのは「総理の椅子」が見え、いつ天下を取るかも具体的に考えていたのでしょうか。
船田 考えていなかったというと嘘になりますね。50歳がひとつの節目だと思っていました。
――どうして「50歳」だったのですか。
船田 うちの父親が栃木県知事になったのが51歳。だから50歳というのは目指すべきポイントかなと思っていたんです。そういう物差しになるんですね。しかし、途中で挫折がありまして、それでちょっと計算が狂いまして。
――どんな挫折ですか。
船田 それはもう、ご想像にお任せします。それでも、諦めたかというと諦めていなくて。次は「60歳までに目指そう」と考えていました。うちの父親は62歳で、早くに死んでいるんです。
 
毎日飲んでいました。もちろん、私のおごりです
――やはり注目されている時期は、お金や仲間が集まってくるものなのでしょうか。
船田 お金はそれほど集まらない。仲間を集めることは大切です。毎日、レストランや中華料理店に行って、23人と飲んだり、サシで飲んだりしていました。もちろん、私のおごりです。
 仲間といいましても、「あの人は人気あるからおこぼれに与りたい」という人と、本当に支えてくれる人がいて、23回も会えば見分けられると思いました。酒を飲めばわかる、と。ですが、全員が打算で集まっている感じがしたり、よくわかんなかったです。ご馳走したことに対して、翌日に御礼を言わないとか、会ったことについて他の人に漏らしてしまうとか、疑心暗鬼は消えませんでした。
 
 だから今、小泉君には、人気があるからといってそれだけで集まってくる人と、本当に助けてくれる人の仕分けをきちんとやりましょうと教えてあげたい。彼はわかっていると思いますが。
 
――これまでに「一番信じられなかった人」とは誰だったのでしょうか。
船田 それは言いません。だけど、一番信頼できるのは、今で言えば竹下亘自民党を離党した後も私のことを一番心配してくれていましたし、先代の竹下登先生も、私がどういう状況になっても私の立場をよく理解してくれました。
 
「鳩船新党」が決裂した原因は……
――プリンスとして注目されると近寄ってくる人ばかりではなく、ライバル意識をむき出しにしてくる「敵」も増えたのではないでしょうか。
船田 つっかかってくる人はいましたね。
 民主党ができる前、鳩山兄弟と私との間で新党(仮称「鳩船新党」)を作ろうという話が浮上したことがありましたが、あの時の鳩山邦夫さんは私に対してめちゃくちゃ辛く当たってきましたね。例えば、お兄さんの由紀夫さんと夜会ったということを邦夫さんが漏れ聞くと、「何を話した?」「どこで飲んだ?」とか詰め寄られました。当時は本会議場の議席も隣どうしで、本会議中ずっとそういう話ばかり。
 それと、鳩山家の別荘が軽井沢にありますが、同じ敷地の中に兄と弟の棟が分かれているんです。私がそこを訪ねた際、兄貴の家にずっといたら、邦夫さんが「殴り込み」に来ましてね。「なぜ、オレのところに来ないんだ?」と。それで、お兄さんも仕方がないから、私と二人で、邦夫さんの別荘に行って話をしたら、ちょっかいを出してきて、話をぶち壊してきたということがありました。
 邦夫さんのほうが1期上ですし、うちのおじいさんは鳩山一郎政権の時に防衛庁長官でお世話になったということで、鳩山家に対する尊敬はずっとあったんです。私の初出馬の時も邦夫さんに応援に来てもらったんです。それ以来、ずっと慕っていたんですが、邦夫さんよりも私のほうが世間から注目されるようになってしまい、それと兄貴との関係もあったので、「オレの兄を奪う気か」「オレの前に出る気か」という2つの意味で相当やられました。
――そういうことが、鳩船新党構想の決裂にも影響したのですか。
船田 大いにありました。
 
光がだいぶ衰えた状況になるでしょうね
――「政界のプリンス」として一世を風靡し、永田町の酸いも甘いも噛み分ける船田さんの目には、総裁選で洞ヶ峠を決め込んだ小泉さんの姿がどう映り、これからどうなっていくと見ていますか。
 
船田 全てを敵に回したということだから、今は何を言おうとしてもバイアスがかかって見られてしまいますので、光がだいぶ衰えた状況になるでしょうね。
 
 政治家というのは、光っている時は自分では大したことないと思って言う言葉が大きく取り上げられて、「すごい!」と騒がれたりします。逆に、光を失くした時は、「この一言でスターダムにのしあがるかもしれない」と思っても、こけたり、全然反応がなかったり。その落差は極めて大きいです。彼もこれからいろいろやっていくでしょうが、私と同じような経験をするでしょう。でも、それでめげてはいけない。必ず光を取り戻す時があるはずですから。
 
――船田さんは「めげない」ためにどうしていたのですか。
船田 党の会議に出ても目立つところには座らない。発言を控える。しかし、そこに存在はしているという日々を過ごしました。東京の予定よりも地元のイベントを優先し、政局は一応ウォッチしますが、他の仕事を一生懸命やることで気を紛らわせていました。ある意味では英気を養っていました。
 議員どうしで飲みに行く機会も減ります。でも、それは仕方ないんだと、また波が戻ってくる時はあるだろうと言い聞かせながら、その時を過ごしていたんですね。
 
 
これ『「プリンス」と呼ばれた船田元が読み解く小泉進次郎の苦悩 小泉進次郎は変節したのか? 連続インタビュー #1』と題した文藝春秋 201811月号の常井健一さんと言う人の記事である。
 
 
 
 
 
 自民党衆院議員には、総裁経験者の子女が小泉進次郎氏のほかに5人いる。
 9月に行われた自民党総裁選では鈴木俊一河野太郎小渕優子福田達夫各氏は所属する派閥の方針に従い、告示前に態度を明らかにした。残る橋本岳氏は、総裁選の3日前に自身のブログで石破支持を表明した。
自民党総裁選における橋本がくの国会議員としての一票は、国会に送りだしていただいた有権者の皆さまのご支援の賜物であり(略)自分の投票行動とその理由については有権者の皆さまにご報告すべきことと考えます〉(「橋本岳ブログ」より抜粋)
 私はその文章の最後を読んで、「元総裁の子」の中でもひとり意思表明から逃げ続ける小泉氏が苦悶する様子が浮かんだ。
 
「名字のおかげで自分の実力以上に注目される」
8割の向かい風と2割の追い風ですね。政治には歴史やしがらみがありますから、自分ではどうにもならないことも多いです」
 
 元首相の孫で、現職参院議員の父を持つ衆院1回生の中曽根康隆氏(36)は、政治家一族の中で育った「プリンス」が抱える特有の苦悩を語る。
 
 進次郎と同学年。同じアメリカの大学院で学び、昨年の衆院選に初挑戦する際、かつて福田家、小渕家と議席を争った「上州戦争」のしがらみに翻弄された。無所属での出馬を模索したが、公示直前に党の和解案を受け入れ、比例単独に回った。忸怩たる思いで、「プリンスの箍(たが)」に身を委ねる道を選んだのだ。
「名字のおかげで自分の実力以上に注目される中でどのように立ち振る舞うか、本心をどう伝えるか、意図しない結果をどう抑えるかというのは、たぶん、進次郎さんと『こうだよね』という話をしなくても、お互い抱える悩みで、こういう境遇にいない人にはなかなかわかりづらい」
 そう語る中曽根氏に、私は質問を続けた。
 
 今回、1010日発売の月刊『文藝春秋11月号に10ページにわたって掲載されている拙稿「小泉進次郎『プリンス』はなぜ変節したか」に収まりきらなかった中曽根氏のインタビューを紹介する。
(聞き手・常井健一)
 
いまは「進次郎さん」と呼んでいます
――「元首相の孫」として、「元首相の息子」の小泉さんと比べられることも少なくないと思います。中曽根さん自身はどう思っていますか。
中曽根 そもそも同じ年、同じ大学院を卒業したというだけで、議員になる前に1回食事をしたというだけで、特別に仲良しというわけではなく、ましてや私は1期生の駆け出しです。政治家として進次郎さんは大先輩でもあるので、私のほうが一方的に刺激をもらっている状態です。
――今の小泉さんを見ていて、政治家になる前と変わったところはありますか。
中曽根 顔つきです。顔の筋肉が常に引き締まっている感じ。大きなものを背負っている顔をしています。昔は「ヤス」と「シンジロー」と呼び合うただの若者どうしでしたが、今はお互い公人。「進次郎さん」と呼んでいます。
 
マスコミに向かって言う必要がなくても……
――中曽根さんは早々に総裁選での安倍支持を表明しました。それは、所属する二階派の方針に従ったということですか。
中曽根 派閥の方針もそうですし、色々な見方があると思いますが、やはり個人的には特に外交面で日本の顔を変える時期ではないと思いました。
――小泉さんが頑なに意志を表明せず、「沈黙」を続けたことについてはどう感じましたか。
中曽根 進次郎さんの立場は影響力が大きいですから、私みたいな人と違って彼の発言や行動は意図しない結果を生む可能性がある。言いたいことあっても、言わないほうがいいことがあると判断したと思います。それは、私も理解できます。
 ただひとつ思うのは、マスコミに向かって言う必要がなくても、地元の支援者だったり、「小泉進次郎」を通して党員になっている人たちに対して、自分がどういうふうに思っているか、態度を明らかにして説明する責任はあったと思います。
 
「女の子とふたりの時は個室のほうがいい」
――中曽根さんも小泉さんのような形で人から注目を浴びる政治家になりたいですか。
 
中曽根 人から注目される……。う~ん。語弊があるかもしれませんが、人から注目されるような政治家にならないとだめだと思います。ただ、注目されるためにパフォーマンスするというわけではなくて、自分のパフォーマンスが自然に注目されるようになるという、そういう順序でいけば、名誉なことですよ。進次郎さんのようにあれだけの人が囲んでくるというのは、国民の多くが関心を持っている政治家ということですから、素晴らしいじゃないですか。自分も注目される政治家にならなくてはならないと思います。
――しかし、プライベートまで衆人環視に晒される。以前、進次郎さんから「ひとりでスタバに行って、本を読むなんて、もうできない」というボヤキを聞いたことがあります。最近では、中曽根さんの結婚が週刊誌や新聞の記事になりました。
中曽根 極めて個人的なことですから、自分がお世話になった人や知らせたい人に知らせられればいいことなのに、ね。あんまり結婚に関しては、周りがどう言おうと、相手とのタイミングだけを見計らっていました。付き合う中で、昨年に初当選し、たまたま結婚しようというタイミングが来たんです。
 付き合っている間も、悪いことしているわけじゃないので、居酒屋でも個室を使うこともなく、普通にふたりで食べていました。が、ある時、先輩議員から注意されました。「ヤスタカさん、女の子とふたりの時は個室のほうがいい」と。でも、フィアンセですから。どうぞ、どうぞ、見てくださいと思って普通に過ごしていましたが、やっぱり人は私のことを「中曽根康弘の孫」、「中曽根弘文の息子」として見ているということです。
 
覚えてもらえるのはありがたい
――「中曽根の孫」というブランドの存在は、政治活動を行う上でやはり大きいですか。
中曽根 大きいですよ、良くも悪くも。人は「中曽根康隆」の名刺を見て、「中曽根」という名字だけ見ますから。まずそこで注目して、覚えてもらえるのはありがたい。もし、中曽根以外の名字だったら、そうはならないでしょう。
 
 今の段階では「中曽根」のおかげで、こういう取材もそうだし、色々な国の大使が会いたいというオファーをくれたり、地元の群馬に行っても「比例単独選出」という立場なのにみなさんが笑顔で握手してくれたり、他の人より勉強や成長の機会を多くもらえているというのはありますね。一方で、逆に中曽根という名前のおかげで、初めから「嫌い」と言われることもたくさんあります。
 メリット、デメリット、両方あります。問題は、それをどう自分で使うかなんです。使い方を間違えれば、必要以上に落ちていくし、うまく使えば、必要以上に注目される。結局は、「中曽根」ではなく、「康隆」次第、自分次第なんです。
――最近、あるネットニュースで中曽根さんのインタビューが掲載された際、記事の大見出しが「中曽根康隆」ではなく、「中曽根康“弘”」と、祖父の名前を誤って書かれた状態で配信されたこともありましたね。
 
中曽根 あれは象徴していますよ。言ってみれば今の私はその程度なんです。私が注目されているわけではなくて、私の外側、つまり、「中曽根」という名字のおかげで、インタビューをしていただけている。あれで、引き締まりました。だから「七光り」といわれるのは、しょうがないですよ。事実ですし、ゲタをはかせてもらっているのは大きい。そういうものは受け入れて、どうやって「中曽根康タカ」を成長させていくか、役に立つ政治家になっていくかというのは、私の力量次第です。
 
決して世襲議員ではないのですが……
――中曽根さんは衆院選に出る前、衆院群馬1区の党公認候補者選考で現職議員と争って敗れるという事態に直面しました。その後、無所属での出馬を模索しながらも、昨年の衆院選の公示直前に選挙区での立候補を諦め、自民党の比例単独候補になる道を選びました。私は出馬前から中曽根さんの取材を続けてきましたが、あの頃、「総理を出した家の人間を無所属で出馬させることは許されない、という暗黙のルールが自民党にはあるんだ」と、複数の党関係者から聞かされました。戦いたくても戦えない、プリンスならではの苦悩があったのでしょうか。
中曽根 私の場合は、祖父はとっくに引退していて、父は参院議員なので、衆院選に出ようとした私は決して世襲議員ではないのですが、それでも周りからは「世襲」と思われています。私がそういう歴史やしがらみと戦った末に、今、バッジを付けている――とわかってくれている人は、ほんの一部しかおりません。
「無所属でも戦おう」という美学を貫くべきかどうか。しかし、無所属で出て、結果的に落選しても仲間たちは喜んでくれるのか。それなら勇気ある妥協をして選挙区を捨ててでも議員バッジを付けたほうが仲間たちは喜んでくれるんじゃないか。でも、比例単独で出ても当選する保証はないんじゃないか。いや、チームの力があれば無所属でも選挙区で勝てるんじゃないか、いやいや、自分は勢いだけで戦おうとしていないか……。こんなふうに、判断基準がない悩みを抱える日々が続きました。
 
初当選後はお詫び行脚をしっかりしました
中曽根 昨年、急に衆院の解散があって、事務所開きの日、前の晩は一睡もできぬまま、吐きそうな気分で、早朝から街頭に立った。新聞では「無所属でも出る」という決意が報道されていましたから、通り過ぎていく自動車の中からも「がんばれ、がんばれ」の応援がすごいんですよ。頭の中がぐちゃぐちゃのまま、事務所の1階で、たくさんのテレビカメラと支援者のみなさんを前に「どういう立場でもみなさんの期待に応えられるように頑張ります」と挨拶するわけです。その10分後、2階に上がってミーティングルームに移って座った。その瞬間、「比例に移る」と決断し、その場ですぐにスタッフたちに表明しました。
 怒る人も泣く人もいました。その結果、バッジはつけられた。でも、そこからの説明が何よりも大事で、初当選後はお詫び行脚をしっかりしました。「そういうことだったのか、じゃあ次も応援しよう」と言ってもらえるかどうかは不安でしたが、今のところは仲間たちが残ってくれています。今は1期生だから何を言ってもわかってくれないこともありますから、とにかく挑戦し続けていきたいという思いが強くあります。
 
 
 小泉進次郎さんだって、世の中からは当たり前のように議員になったと思われていますが、初めの選挙は大逆風の下、比例重複立候補を断り、公明党の推薦も断り、裸一貫になって、世襲批判の中に突っ込んでいって結果を出したわけですよ。私の場合も追い風はなく、神輿に担いでもらったのではなく、むしろ神輿に無理やり乗ったようなものですけど、仲間たちはどのようにして私が議員になれたかをわかってくれています。たぶん、進次郎さんもそういう仲間たちに支えられているんじゃないんでしょうか。
 
今はお互いに一国一城の主だと思っています
――小泉さんの父・純一郎さんは、中曽根元首相に引退を迫った過去があります。中曽根さんは政治家になる前、あの時の「悔しさ」についてブログでつぶさに綴ったことがありました。現在、その息子である小泉さんにはどのような気持ちがあるのでしょうか。
中曽根 たしかにふたりが並べば、「因縁のライバル」とか、面白おかしくネタにされそうですけど、あれはうちの爺さんと小泉純一郎さんが解決してくれればいい話で、世代を超えて引き摺るのは何のプラスにもならない。そういう点で進次郎さんをライバルとも思ったことはないし、純粋に同世代として、これからの日本をどうしていこうか考えていこうという話です。
 今はお互いに一国一城の主だと思っていますから、私から意図して小泉さんに近づこうとは思わないし、一致できるところはどんどん協力していけばいい。かといって、無理して同じ思想になる必要もありません。特に意識もしていませんが、私が初当選してからの1年間は進次郎さんと距離が縮まる機会がありませんでした。まあ、自然な流れで何かのタイミングで、同じ仕事をするようになることもあるんじゃないんですか、ね。
 
 
こちらも『政治家一族の「プリンス」中曽根康隆は沈黙する小泉進次郎をどう見たか 小泉進次郎は変節したのか? 連続インタビュー #2』と題した文藝春秋 201811月号の常井健一さんの記事である。
 
 
中曽根元首相のお孫さん中曽根康隆さんは私は初めて知ったが、そもそも小泉進次郎と言う男を将来の宰相候補としたのは誰だ! 全てはマスコミが作り上げた虚像と言える。あの変人小泉純一郎の息子というだけで何が凄いのか? 普通それだけ騒がれていたのなら、親父が「脱原発」云々を言ったのなら、すかさず、在任中の進原発を捨て、職を解いたら今度は「脱原発」とは少なくとも政治信条は無きに等しいのに、その詫びさえせず、その息子と言われて恥ずかしくないのだろうか。それで宰相候補とはウソに固まった現安倍首相と何ら違わず、片腹痛いと言う事になってしまう。逆説すれば、ただそれだけの人となる。もちろんマスコミにも大半の責任はあるが・・・・