今回の衆院選では、各政党の立ち位置を表す言葉として「保守」や「リベラル」といった言葉をよく耳にする。民進党が希望の党への合流組と立憲民主党への参加組などに分裂したのがきっかけだ。希望は自ら「改革保守」を標榜し、立憲民主党は「リベラル新党」と位置づけられることが多い。自分たちの立ち位置をどう表現すれば支持を広げられるかを探る様子もにじむ。
政治の世界で使われる保守やリベラルという言葉の定義は必ずしも明確ではない。なかでも使う人や文脈によって意味が変わり、中身が分かりにくいのがリベラルという言葉だ。「リベラルだと言われるが私は保守だと思っている」。立憲民主党の枝野幸男代表は街頭演説でこう繰り返す。
枝野氏は「日本は古くから寛容と多様性と支え合いを重視してきた」と述べ、こうした価値を重んじる自身を保守と位置づける。しかし、安全保障関連法に強く反対する同氏の政治的な考え方には、永田町では一般的にリベラルという言葉があてられる。個人の人権や平和主義などを重んじ、憲法改正にも慎重な立場を指す場合が多く、立憲民主党がリベラル新党と評されるゆえんだ。
同党は、希望が安保関連法の容認や改憲支持などを打ち出したことに反発した「民進党リベラル系」の前議員を中心に結成された。同党結成に動いた赤松広隆・元衆院副議長は「リベラルを代表する政党をつくるべきだ」と主張していた。
もっとも、日本の保守政党の代表格は自民党だ。綱領には「日本らしい日本の保守主義」を目指すと明記。改憲を支持し、日米同盟を堅持する路線は一般的な保守のイメージだ。日本維新の会も「改革する保守」をうたう。改憲を巡って自民党と維新の連携が取り沙汰されるのも、両党が同じ保守政党だからだ。
「保守対リベラル」の構図はいつ生まれたか。源流は冷戦期にある。世界は資本主義と社会主義の陣営に二分され、国内では自民党と野党第1党の社会党が対立する55年体制が続いた。この構図は「保守と革新の対立」と捉えられてきた。
しかし、1989年の冷戦終結でイデオロギーの対立は崩れた。それまで共産党などが掲げてきた革新色の強い主張も忌避される傾向が強まった。その流れのなかで、保守を掲げる自民党への対抗軸として、革新勢力が見いだしたのが、より広い意味で使える「リベラル」という概念だったとみる向きは多い。
こうした経緯から、旧社会党出身の横路孝弘元衆院議長や赤松氏は「リベラル系の重鎮」などとされてきた。革新よりも中道寄りをイメージさせるリベラルという言葉は、幅広い支持を集めるには便利な言葉だったとの指摘もある。
米国政治の文脈でも意味合いが違う。二大政党制が根付く米国では「共和党=保守、民主党=リベラル」に大まかに分類される。保守は宗教的な価値観を重視し人工妊娠中絶に反対する立場などを指し、リベラルは少数者の権利や福祉政策を重視する姿勢を表すことが多い。
「右でもなく左でもなく前へ進む」。こう話す枝野氏に対し、小池氏も「ど真ん中のフェアウエーを進む」と強調する。路線を巡ってたもとを分かった希望と立憲民主党。共に「我こそ中道」と訴えることで、イデオロギー色を嫌う無党派層の支持を取り込みたいとの思惑も透けてくる。
これ「看板、保守かリベラルか 支持拡大へ各党手探り」と題した日本経済新聞電子版の2017/10/191:30の配信記事である。
「保守」や「リベラル」と言った政治の専門用語で解く前に、この衆議院選での各政党や立候補者の政見放送や街頭演説を聞いてれば余りの酷さに閉口する。確かに、政治に興味や関心を持っていない選挙民には説得力として映るかも知れないが、それなりの人間にはその酷さは筆舌し難いと言える。街頭では何を話しても良く、それを聞き、それを判断し、それを考慮して投票する人間から見れば、本当にこの人が言ってる事、実現出来るのか疑わしいのが殆どである。だって一国会議員で国の政策を遂行する事が出来ない事を平気で言ってるからである。特に国の歳入の根幹である消費税を無くしたり上げたり下げたりする事本当に出来るのか!と言いたい。うがって見ればリップサービスで選挙を有利にと言う事なのであろう。逆説すれば、国会議員もしくは選挙に当選して国会議員になろうとする者は皆ウソつきと言う事になり、ウソをつけなけりゃ国会議員になれないとも言えるのである。(笑い)