あの旧田中派の流れをくむ無所属の中村喜四郎議員 野党結集に動くとは青天の霹靂に近い!驚いた!

 今、永田町で一人の政治家が野党再編のキーマンとして注目を集めている。
 衆議院議員当選14回の大ベテラン、中村喜四郎である。

 自民党を離党して四半世紀。その間、無所属を貫き、マスコミの取材にも応じないことで有名だった。

 ところが、10月には朝日新聞、11月には共産党の機関紙「赤旗」のインタビューに応えた。そして12月16日にはノンフィクションライター・常井健一氏が『無敗の男 中村喜四郎 全告白』(文藝春秋)を出版。なんと1年半にも及ぶ長期間にわたって繰り返しインタビューを行い、中村の半生を余すことなく掘り起こしている(そのため「中村喜四郎とは何者であるのか」については、常井氏の著書を読んでもらうに限る)。

「水と油」の野党をつないだ
 なぜここへきて中村への注目が集まっているのか。それは2017年10月の総選挙で民進党が分裂して以来、水と油のように交わることのなかった立憲民主党と国民民主党が、この12月に合流に向け協議に入ったからに他ならない。
 その裏では、中村が共産党までも巻き込み、地道に積み重ねてきた「野党共闘」への道筋づくりがあったのである。

 中村は、最初から野党共闘への熱意を示していたわけではない。17年総選挙での再選直後、私は中村に直接取材することができた。その時、今後は野党の中で活躍していくのかとの問いに対して、「それは、わかりません。必要性があればやりますけど、別に請われなければ自分からはいきません。経験のある人から意見を聞きたいということがあればやります」
と答えるにとどまっていた。

 ところが中村は2018年に入ると会派「無所属の会」に参加し、事実上、自身も初めてとなる「野党議員」になった。この年の新潟県知事選では野党候補の応援演説も行うなど、野党共闘に向けて汗を流し、今年になって立憲民主党の会派に合流した際には「当然の流れだ」とまで口にした。とは言っても、今年の初夏までは手応えが薄い様子だった。

 永田町では、7月の参院選を前に、安倍総理衆院解散に踏み切り「ダブル選」とするか否かが焦点となっていた。
 通常国会が終盤に入る5月中旬には、中村は「解散風」に右往左往する野党を見て、「(野党は)迷走している。どっちの方向に向いているのか……。ぐるぐる回っている」と嘆いてみせた。
 しかし結局、夏の解散はなかった。6月26日の国会会期終了日には、全く政権を追い込めなかった野党の不甲斐なさを念頭に一言、「残念だ」とこぼした。そして「(今後)解散がいつになるか。(安倍政権は)レームダックに入る。安倍氏が変わる時に自民党がどう動くか。そこにどう野党が絡めるか。政治はこれまでも、与党が変わる時に動いてきた」と続けた。
 「与党が変わる時」という中村の言葉には、1年半にわたり野党共闘のために動いても、状況を変えられなかったという落胆が混じっているようにも見受けられた。

安倍総理はしたかった。だけど、しなかった」
 ところが筆者の受けた印象とは裏腹に、実際には、中村は水面下で粛々と根回しを進めていたのだった。
 その翌週、参院選が2週間後に迫る中、私は中村と1対1で向き合う機会を与えられた。中村は自分の頭を整理するかのように語り始めた。
 「安倍総理は解散をしたかった。だけど、しなかった。それがなぜなのか。それこそが政局を読み解く鍵なのではないか」
 「解散すれば、安倍政権はさらに固まる。どう考えても、今の野党では与党に対抗しきれない。そうするとますます国民の諦めが進んで、野党に対する遠心力が働いてくる。それがわかっているのに、なぜやらなかったのか」
 「与党の中に解散を阻止した人がいる。与党にそういう動きが出てきた」
 そして、まず地元茨城での野党共闘について語り出した。
 今年の参院選で、茨城県選挙区には現職の藤田幸久(立憲民主党)がいたが、国民民主党から離党して立憲民主に入った藤田には、国民民主の反発が強かった。立憲は藤田ではなく新人の小沼巧を候補者としたが、国民民主との距離は広がる一方だった。
 6月、茨城選出で今回非改選だった立憲民主の参院議員・郡司彰が中村に連絡を入れ、党の県連会長である難波奨二を紹介した。
 「私だけではダメだ。浅野と青山、福島にもちゃんと案内してくれ」
 中村はそう言って、自ら会合を用意した。

弱者がいがみ合ったところで
 中村の頭には、衆院選に備える意味でも、小選挙区で当選圏内にある「1区福島伸享(無所属・前)、5区浅野哲(国民民主・現)、6区青山大人(国民民主・現)、7区中村喜四郎」の4人が当選するために、県内での野党の状況を整備しておくことが必須だとの考えがあった。
 「そこに(立憲民主党の)福山(哲郎)幹事長にも来てもらった。『なんでこういう候補者選定になったのか』『なぜこの候補者なのか』『今頃になってこういう状況になったのはなぜか』というのを、野党第一党の幹事長が来て説明すべきだと言ったら、彼(福山)も来たんだ」
 福山は参院選の候補者をめぐるゴタゴタに関して、「いろいろな形で不手際があって、ご迷惑をかけた」と詫び、選挙協力を要請した。
 中村は「選挙は協力し合わないといけないのに、弱い野党がいがみ合っていては展望なんて描けない。政治家はそういう戯言を気にしていたのではダメで、前を向いていかないといけない。勝つためにはみんなで協力するんだ」と檄を飛ばし、わだかまりを抑えた。
 こうして、7月4日に水戸で行われた小沼の出発式には中村を含む4人が並び、参院選での野党共闘の図式が出来上がった。

共産党との交渉
 中村はその後、京都にも出かけた。「野党共闘のカギになるのは京都だ」と見ていたからだ。
 京都は、希望の党への合流を決めた前原誠司と、そこに合流せずに立憲民主党の設立メンバーとなった福山哲郎の地元である。中村は前原の背中を押すように言った。
 「あなたが動かないと、野党はがんじがらめの中で二進も三進もいかなくなる。あなたが動けば野党が変わる可能性がある」
 ただ、福山は「(国民民主党は)無条件で京都の候補者を降ろしてほしい。前原さんと話をするつもりはない」と、強硬な姿勢を崩さなかった。
 中村がそのことを前原に伝えると、前原は大きなわだかまりを抱えながらもそれを飲み込み、京都選挙区から国民民主の候補者を降ろした。
 参院選の選挙戦の只中にある7月10日、中村は再び京都に入った。演説会の会場に、前原と福山も同席した。
 一方、2議席改選の京都府選挙区では、野党の議席共産党が持っていた。立憲と国民が共闘すると、共産党と食いあってしまう。徳島・高知の選挙区では共産党候補が野党統一候補となっていた。中村は事前に共産党穀田恵二に京都に行くことを告げるとともに、高知まで応援に行くことも約束した。
 中村は筆者にこう言った。
 「行くこと自体は大したことなくても、そういう手続きを野党が踏めるようになってきたということ。子供みたいに人の悪口ばかり言っていた野党が、根回しして、相手を尊重して、頭を下げさせないで手打ちすることができた。環境を整えようとしないのであれば、私もこっち(野党)に来た意味がない」
 中村の並々ならぬ覚悟だった。

選挙を舐めてはいけない
 中村が最も重視しているのは「選挙」だ。中村自身は、日本最強の「どぶ板選挙」のスペシャリストとして知られている。
 「(政治を)変えていくには選挙が全てだ。権力の源泉は全て選挙だ。選挙で負けているから、(野党は)逃げたいと思っている。いっぺんには勝てない。(2019年の)参院選は、戦うためのウォーミングアップにすればいいんじゃないか」
 実際、この参院選で野党にどれだけの結果が出たのかといえば、決して芳しいものではなかった。
 しかし、参院選後に会った中村の表情は、明るくなっていた。
 「みんなで一緒になって戦ったことに意味がある」
 この後、8月の埼玉県知事選で野党系候補が逆転勝利、11月の高知県知事選で共産党候補への一本化(結果は敗北)と、野党共闘は深化していった。
 「選挙の価値を高めていかないといけない。野党は、それができなかった」
 以前中村が口にしたこの言葉の重みを、改めて感じた。

野党が変わり始めた
 選挙での意思疎通の積み重ねだけが、政治家たちの距離を縮める。ともに戦う同志に仲間意識が芽生えるのは、自然の流れだ。
 10月からの臨時国会を前に、立憲民主・国民民主・社民は衆参で共同会派を組むまでに至った。
 そして11月6日には、中村の呼びかけで立憲民主党枝野幸男代表、国民民主党玉木雄一郎代表、共産党志位和夫委員長、社会保障を立て直す国民会議野田佳彦代表、無所属フォーラムの岡田克也代表、社民党の吉川元・幹事長が一堂に会した。
 「最初にみんなそれぞれ10分ずつ話をした。そして、そのあとは飲んだ。ただ飲むだけではダメだし、堅い話だけでもダメ。どちらもなくては。政治とはそういうものだ」
 いがみ合ってばかりのこれまでの野党にはなかった動きが、中村という触媒が現れてから、日に日に活発になっていった。
枝野から各会派へ正式に合流の申し入れがあったのは、その1ヵ月後だ。もっとも当初、野党幹部は中村に対して冷たかったという。中村はこう述懐する。
 「早い時期に枝野さんには面会を打診したんだけども、3ヵ月ほど何の返答もなかった。返事すらないなんて、どういうことなんだろうと思ったよ。でも、そこで怒ってしまっては終わりだ」
 相手を動かすためには、自分がまずは動かなくてはならない。それが中村の政治のやり方だ。
 「あの中村がここまでやっている。だからしょうがないじゃないか、と思われるようでないと。竹下(登)さんがそういう人だった」

石破との会食の意味
 中村といえば、小沢一郎の存在を抜きには語れない。かつて中村は自民党経世会で小沢側近だった。しかし、のちに小沢批判の急先鋒となった。ともに自民党を離れたが、民主党政権の瓦解以降は、小沢もまた野党勢力の結集に力を注ぐようになった。
 「野党が1つの政党になれば、確実に政権交代できる」と繰り返す小沢は、そのために今春、自由党を国民民主党に合流させた。しかし、その時から中村は「小沢政局になってはダメだ」と厳しい口調で語っていた。
 その理由はおそらく、闇雲に政党を離合集散させるのではなく、本稿で一端を記したような、しっかりとした手続きを踏む「大人の政治」を野党に根付かせる必要があると考えていたからであろう。
 「小沢さんとは、目指しているものは同じ。ただ、それぞれ全く別のところでやっている」
 臨時国会最終日の12月9日、中村に話を聞くと、以前より温和な表情だった。
 「俺は小沢さん叩きの急先鋒だった。その二人が野党のためにやっている。今は自民党では清和会支配が続き、経世会出身の俺と小沢さんが野党の側で対立軸を作っている。清和会と経世会の戦い、保守とリベラルの戦いなんだ。石破(茂)さんはそういう旗を立てられていないのが、弱い」
 それなら、石破とも一緒になれるんじゃないか──そう水を向けると、「もう繋がってるかもよ」と、不敵な笑みを浮かべた。
 その2日後、中村は元自民党副総裁の山崎拓らを交えて石破と会食していた。それどころか、常井氏の著書によると、実は6月5日にも石破と会食していた。報じられていないだけで、水面下では様々な動きがあるのだ。
 もしこれから、ようやく本格的な野党共闘が成るのであれば、その立役者が中村であることは銘記されるべきだろう。


これ『急速な野党合流は「最強の無所属議員」中村喜四郎が仕掛け人だった』と題した現代ビジネス12/18(水) 7:01の配信記事である。


中村喜四郎と言えば旧田中派の流れをくむレッキとした保守右派の金権政治家の代名詞と言われる選挙上手の人間である。彼が四半世紀前ゼネコン汚職で逮捕されても完全黙秘を貫き、15年前復活するが自民党入党叶わず、無所属議員として現在に至った。元の親分小沢一郎の後追いに近いが、その生き様は似て非なるものがある。政治家としては後輩にあたる現安倍首相に対してはそれなりの考えがあるのであろう、対抗するために野党結集に動いた気持ちも解らないではないが、いくらそうでも、あの極左共産党と手を組むとは、世の中変わった物であり、共産党も今までの共産党でなくなった。今後が注視される。本当に政治は面白くなって来た!