ムダの結晶 地方の公立医療施設と官公庁舎

 私は以前に指摘したが、今もってその行政トップの意識改革が出来ていない事に非常な怒りを抱いている。
 話は全く違うがどうしてこうも日本人はあらゆる不満を内に秘め、現在の各国でチュニジアで始まったジャスミン革命を初めとするシリア騒乱で起こっている「民主化運動」のような市民の暴動を起こさないのだろうか、本当に不思議である。昔よりこう言う場合は知識階級である大学生たちが、事の不条理を叫び真っ先に不満を体制に表す筈であるが、日本の大学生は物解かりが良くなったのか、無気力になったのか、それとも時代の背景上合理的な就活に差し障ると言うような、およそ若者に似あわない常識?を悟ったのか、いづれにしても日本を背負うにふさわしくない輩と化した現実は見るに忍びない気持ちであると同時に、日本の将来を託せる人材不足を見せられた思いがする。
 
 話を戻そう。私は最近より政治と行政のあらゆるムダに対し、それなりの警告を発してきたつもりであるが、冒頭にあるように、特に今回ムダの結晶である地方の公立医療施設と官公庁舎を挙げて見たい。
 
 私は土木屋ではあるが専門の建築屋としての立場からいつも、何故どうして、機能を優先しなければならない公共物の箱モノにどうしてデザインを重視した建物が必要なのか不思議でならないのである。確かにそれらを利用する人間は、目的ではない、精神的な満足感をも必要性は感ずるが、それはあくまで環境が許せる時と場合によるのではと私は思っている。一例を挙げて見よう。例えばある山村に唯一の公立病院があったとする。日本全国のこの手の病院は、恐らく現状に似つかわしくない建物が殆どである。4,5階を通した吹き抜けの光がサンサンと輝く超デラックスな建物が殆どである。どの建物もそのために何億も掛かり増しになっているのに気が付いていないのである。病院などは機能を追求すれば、何もそこまでいらない筈である。それらの事業主体である、各自治体は、こぞってわれらが病院と言わせるような、デザイン主体の著名な建築家に頼むか、あるいはこれこそわが町のシンボルみたい気持ちから、予算の上限を設けずに、安易な設計に走りがちである。私はこれらを見るにつけ、何と言うムダこの上無いとも思っている。公立病院だけでなく、官公庁庁舎も似たり寄ったりである。とにかく、公共物はおらが街のシンボル的感覚が行政からはとれないのである。何の事は無い、これらの金は、自分の懐が痛むわけでなく、要するに他人の金だからである。つまり税金だからである。