絶体絶命、救国日本の宰相はやはり小沢一郎しかいない

 東京・六本木のニコファーレで2011年11月19日、小沢一郎民主党代表とジャーナリスト田原総一朗氏の対談があり、ニコニコ生放送小沢一郎×田原総一朗 徹底生討論 『日本をどうする!』in ニコファーレ」として中継された。対談で「国民の自立」を訴えた小沢氏は、新党立ち上げの意志があるかとの質問に対し「民主党で皆さんの信頼を回復したい」と、これを否定。一方の田原氏は、民主党政権になってすでに3人首相が代わっていることなどを挙げ、「この国を変えるためには小沢さんが総理大臣になるしかない」と語った。
 
ニコニコニュースの報道だ。

 
 私はこの対談を見て感じたのは、小沢一郎と言う男は、非常に現実的原理主義者と感じ改めて二度惚れした。そして、自民党の幹事長時代からは歳と共なのか、政治経過がそうさせたのか良くわからないが、非常に丸くなったのを感じた。
 この対談を聞いてて、私は彼の最初の著書「日本改造計画」に重ねながら見ていた。対談でしきりに何度も触れる、民主主義による自立社会の構築と言う考え方である。
 この「日本改造計画」を読んだ事のない人はわからないだろうが、まえがきに彼の政治家としての考え方・信条が見てとれる。1993年、平成5年彼が51歳の時の事である。私はまだ40代半ばであった。
 
 そのまえがきには次の様に書いてあったので紹介したい。
 
 
まえがき
 
 米国アリゾナ州北部に有名なグランド・キャニオンがある。コロラド川コロラド高原を刻んでつくった大渓谷で、深さは千二百メートルである「日本で最も高いビル、横浜のランドマークタワーは、七十階、“二百九十六メートルだから、その四つ分の高さに相当する。
 ある日、私は現地へ行ってみた。そして、驚いた。
 国立公園の観光地で、多くの人々が訪れるにもかかわらず、転落を防ぐ冊が見当たらないのである。しかも、大きく突き出た岩の先端には若い男女が座り、戯れている。私はあたりを見回してみた。注意を促す人がいないばかりか立て札すら見当たらない。日本だったら策が施され、「立入厳禁」等の立札があちこちに立てられているはずであり、公園の管理人がとんできて注意するだろう。
 私は想像してみた。
 もし日本の観光地がこのような状態で、事故が起きたとしたら、どうなるだろうか。おそらく、その観光地の管理責任者は、新聞やテレビで轟々たる非難を浴びるだろう。観光客が来るのに、なぜ柵をつくらなかったか、なぜ管理人を置かないのか、なぜ立札を立てないのか。だから日本の公園管理当局は、前もって、ありとあらゆる事故防止策を講ずる。いってみれば、行動規制である。観光客は、その規制にしたがってさえいれば安全だというわけである。
 大の大人が、レジャーという最も私的で自由な行動についてきえ、当局に安全を守ってもらい、それを当然視している。これに対して、アメリカでは、自分の安全は自分の責任で守っているわけてある。
 この状況は、事故防止の話だけではない。社会全体についていえる。
 たとえば、バブル経済の時代、「経済一流、政治三流」という言葉が流行語になった。政治の世界に籍を置く者として、内心忸怩たるものがあった。確かに日本企業が世界に破竹の勢いで進出していた半面、政界はリーダーシップが不在で、混迷していたからだ。
 しかし、バブル経済が弾けたいまはどうか。一流のはずの経済が、三流のはずの政治に救いを求めてきている。
 戦後の日本企業は、正確にいえば明治時代からだが、護送船団方式に象徴される政府の保護・管理政策によって成長してきた。互いに競争することはあっても、それは、自由競争ではなく、制限された土俵内での競い合いにすぎなかった。そこには、自己責任の原則は貫かれていない。「一流の経済」が自分ではバブルの後始末もできず、「三流の政治」に救済を求める理由は、そこにある。しかも、その救済策は保潅・管理の拡大にほかならない。
  何故、日本の社会は、このように規制を求める社会なのか。
 
と書かれている。以下続くが省略
 
 
 
 つまりは、小沢さんが何度も言う所謂自己管理による自己責任である。根底の主義・主張である。
 現代の余りにも他人管理の他人責任、つまりは無責任に警告を発しているのである。
 だから、政治も政治家が民主主義による「政治の責任の政治主導」なのである。
 
 今のこの政治の閉塞感は何だ。
 今こそ本当の意味の民主主義による「真の政治主導」の取り戻しに他ならない。そのためには、絶体絶命のこの日本を救えるのは小沢一郎をおいて他に非ずと私は思うのである。
 
 
この対談の状況は、「ぐう、ちゃんの一言」のブログで詳しく紹介してるので参照されたい。