愛知県知事選と名古屋市長選のトリプル選が6日、大村前自民党衆議院と河村前名古屋市長の大勝に終わり、民主党の惨敗に拍車が掛かった。要するに当たり前の選挙をやれば当たり前の結果になる、いい見本となった。選挙とは住民の意識調査の表れである。この言わば基本中の基本を守ろうとしない民主党が敗れるのは当然の理である。しかし、悪い事に選挙の責任者が揃ってその現実を無視し、他に責任を擦り付ける様は滑稽でさえある。選対委員長の石井一と選対委員長代理の生方幸夫である。彼らに言わせれば1地方の選挙とはいえ、地域性や特性よりも、大村前自民党衆議院と河村前名古屋市長のタッグを人間としての劇場に見立てた事である。これ等は最初から自分らの責任外の出来事と断定し、国政への影響を遮断しようとした卑怯な論法である。はなから民主党選挙の責任者たるこの御仁たちはそこそこの議員経験しか無く、どだい小沢一郎と比較出来得るには無理があったのである。恐らく菅首相は小沢一郎の選挙手法を知り尽くした石井一であればの考えであったろうが、甘かったのである。生方等は刺身のツマ以下である。
この結果はいかに民衆の支持は当たり前かと言う事が解るのである。
この結果はいかに民衆の支持は当たり前かと言う事が解るのである。
民衆は入り(収入)は多いほど良く、出(支出)は少なければ少ないほど良い。これは当たり前の理屈である。入りが変わらないか少なくなれば当然出が大幅に下がらなければ喜ばない。これも道理である。それを現実化するのが政治であり、言った事、契約した事を守るのも政治である。それさえ約束されれば民衆はついて来る。これが政治と言うものでは無いだろうか。私がこう言うとそれなりの人々には笑われる。何故か、それは財源が伴わないと絵に描いた餅であるからである。この論法は小沢一郎とあらゆる方々との今までのマニフェスト論と一緒になる。小沢一郎の論法はただ単純なる財源論では無い。政治のシステムの変更と言うか大幅な改革による財源捻出論なのである。現実を見ればこれを理解でき得る政治家や官僚がいないと言うよりは、既得権利の消滅が怖い連中しかいないからである。そこには主権在民たる国民は存在しないからである。