よく選挙は「御輿(みこし)」に例えられる。候補者が乗り、それを地方議員やさまざまな業界団体や組織が支える。県内では自民の御輿が頑丈なため、あえて言うなら、誰が候補者でも当選に向け一直線に走り切る。
今回、それが顕著だったのは1区だ。取材していると、前回(2014年)も今回も、担ぎ手が満場一致で「心から担ぎたい」と思う候補ではなかったという声をよく聞いた。公示直前まで「保守分裂」の様相を呈していたのもそのためだ。だが、いったん方向性が固まれば強い。議席死守に向け、担ぎ手は一致団結し、組織力をみせつけた。
小選挙区は当選者が1人の「椅子取りゲーム」である以上、こうした傾向は続くかもしれない。だが、政党名ではなく候補者名を書くのが小選挙区だ。候補者が訴える政策や実績、経歴、人柄よりも御輿が結果を左右するようでは、有権者の政治家への思い入れは薄れ、何よりも政治家個々の資質低下が懸念される。【鈴木敦子】
今回の選挙ほど入れたいと思う人のいない選挙はなかった。
悩むくらい低調な選挙だった。
今朝の新聞は自公で2/3を超えたとの活字が躍っている。
思うに自公の勝利は有権者の消極的支持の表れと言って良い。入れたい人がいないから、じゃぁ自民にしとくか、野党の議員じゃなぁ、と言った事が現実となってしまった感が強い。良く考えてみれば、これは小池さんが希望の党を立ち上げ、保守とリベラルの中間を表明し、あわよくば自民との連立で与党入りを狙った言動が有権者の反発を呼び、共産党が言うような自民を倒す野党共闘が出来なかった事が全ての結果である。選挙に「もし」、「たら」はタブーであるが、使うのを許して頂けば、もし希望の党が設立されず、民進と共産が野党共闘していたら、自民にこれほどまでの勝利を与えなかったのは確実である。今後の日本政治を考えれば、戦後の政治史上最低の政治となるは必定だ。何故なら、安倍1強が尚増幅し、少数意見の通らない独裁政治が根付き、官僚・役人の忖度が今以上にはびこるのは確実だからだ。