「震災除染費用6割使われず」は政治と行政(役人)の「持ちつ持たれつ」の特性だ

 【関根慎一、座小田英史】福島県の市町村が行う除染のために国が昨年度用意した復興予算2550億円のうち、6割以上の1580億円が使われず、今年度に繰り越されたことがわかった。国が最終的に費用を負担する東京電力に配慮して除染方法を厳しく制約していることが要因とみられ、安倍政権が公約する「除染の加速」との整合性が問われる。
 国は原発周辺の直轄除染と別に、県内36市町村が行う除染の費用を支払うため県が管理する「基金」に積み立てている。県の開示資料によると、昨年度中に使ったのは4割未満の970億円。32市町村で繰り越され、17市町村で執行率が5割に満たなかった。それでも国は今年度予算に県の基金などを積み増すため新たに2047億円を計上した。
 市町村の担当者に聞くと、廃棄物の仮置き場確保の遅れや作業員不足に加え、環境省が除染方法を示す「ガイドライン」を厳しく運用し、市町村が求める手法が認められにくいとの指摘が相次いだ。
 

これ「除染予算、6割使われず 国が東電に配慮、市町村に制約」と題した朝日新聞デジタルの報道である。
 

 何度でも言う。これら本当は政治の仕事なのだが、実際はこれ役人の仕事?、要するに如何に自分好みにするかのサジ加減と言える。つまりは私が何度とも無く口を酸っぱくして言ってる事なのである。
 本来は全ての事が政治の責任なのである。がしかし、政治は最後の最後まで責任を取らないと言うより、それらの検証能力が無いのである。と言うより検証し無いと言った方が良いのかも知れない。政治が行政(役人)に気を遣うためなのかそれとも能力が無いのか。私はどんな人間であっても、ヤル気さえあればどんな事も出来ると考える人間だ。本当にヤル気さえあればどんな事も出来ると思っている。出来ないのはヤル気が無いのだろうと解釈してる。そんな人間等我々は必要としないから即退場してもらいたいとも思っている。
 とっさに私は日本維新の会石原慎太郎共同代表の言葉を思い出した。いつだったかあれは、確か政権交代した先の衆議院選の時だと思うが、彼は政治と官僚の役割分担について、政策の立案は政治がやって、その実行案はつまりは政策の行程表は当然に官僚がやるし、絶対政治がやる仕事では無いと彼は断言した事だった。だからこそ官僚・役人が居るのだとも言った。確かに言葉通りに捉えればその通りだと私は思うし、間違いの無い事でもある。しかし、彼は間違っているとも思った。彼は東京都知事として本当にその様に実行したのか言いたいし、私から言わせれば無責任極まり無かったと言って良い。何故なら彼は確かに政策は立案した。それこそ他の議員以上に、大統領的感覚でと言った方が良い。始末が悪かったのは、テーマ(立案)だけ決めて後はお前らの仕事と言って、丸投げした事である。その良い例が東京新銀行の設立である。破綻状況になると、銀行の使命を忘れた経営の仕方をすればこうなるのは当り前的、言い逃れである。だって民間銀行が貸さないから中小企業に融資と言う名目で設立した新銀行である。当然貸せないところに貸した訳だから取れないの当り前で、言っている事とやっている事がメチャクチャであった。そんな事しか出来無いヤツが知事を辞めて公党の代表とは。その時ばかりは私は嫌いな都庁の官僚を擁護したい。
 今回のこの記事に話を戻せばどんな事もどんな政策も、行政(役人)のサジ加減でこれがどうなるかの良い見本である。
 国民の要望があって、どうしてもそれに見合う法を作らなければならなくなった時、一言政治家に言えば良い。政治は行政(役人)側から言われれば、頼られたと錯覚し、自分は頼られる人間だとも考える。それしかない政治家たちである。そこからが行政(役人)側の本領発揮である。立法をするにしても、条例、規則、但し書きやその他やり易いようにする。これ行政(役人)側の特権である。つまりは縛りの網を掛けるのである。そしてどのような観点からも行政(役人)側に責任がこないような文言にもするのである。ここまでは政治も気付かないと言うより関知しないで、行政(役人)側に花を持たせるのである。政治としてはgive & takeだからである。こうする事によって後々、スムーズに行くと思ってるからである。これ政治と行政の「持ちつ持たれつ」と言う。
 そんなこんなだから、この世の法律見てみれば、全てが国民のためと言う錦の「御旗」の影で、行政(役人)の都合の良いように作られている。今回のこの除染の予算だって、使い易いようにすれば、地方の行政側に都合よいように使われる。だから理屈を付けて簡単に使わせないようにし、あわよくば霞ヶ関のお偉いさん、その復興予算別に使える?と考えたかどうかは定かではないが、簡単には行かない様にした事は事実である。つまりは被災者が主ではなかったという事だけは確かである。