安倍政権の政治手法は、先人たちの言葉と並べて畏(か)しこむ謙虚さ」がない!

 安倍政権の異常さは、先人たちの言葉と並べてみれば鮮明に浮かび上がってくる。
「畏(か)しこみ、謙虚に公約を果たす。議席の多数は責任の多量で、政策的なことは質であり、国民の声を聞き、野党の話せる相手と協定し、一緒に、国民のため、国家的目的に奉仕したい。自民党の独善は厳に自戒す」
 1986年の衆参ダブル選挙で自民党に歴史的大勝利をもたらした中曽根康弘・首相は、投開票日翌日の日記に、選挙後の国政に向けた決意をそう記した(エピソードは牧久著『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』より)。その政治状況は、衆参で過半数を占め、「一強」と呼ばれる現政権に重なる。
 しかし、安倍政権に「畏しこむ謙虚さ」はない。「議席の多数」は権力の白紙委任状と思い込み、野党との協議など考えもしない。委員会を途中で打ち切るという異常な手続きでの共謀罪法案の強行採決は、「自民党の独善」以外の何ものでもない。
「自省」「自戒」を常々口にしていた中曽根首相の政治運営は、それでも当時は「独善的」と党内外から批判された。そうした批判や論戦に、中曽根氏は正面から向き合った。土井たか子社会党党首との憲法論争は、今でも「国会論戦の手本」とする声は根強い。それは政(まつりごと)の作法と責任の重さを、時の政治家たちが自覚していたからに他ならない。
 批判に正対せずにせせら笑いで受け流し、権力を守るためには情報を封印することも厭わない安倍政権に、もはや中曽根氏らが大切にした政治の「高潔さ」は全く残っていない。
 総理大臣に近い者への利益誘導疑惑はうやむやにされ、国民の自由な意思を封じる法律だけを作り上げて国会は閉じられた。その傲岸極まりない政治は、東京都議選内閣改造という政局を迎える中で、さらにエスカレートしている。
 権力の責任を顧みることなく、権力の濫用にのみ血道を上げる《あまりに不潔な政治》は、後世の歴史家の審判に堪えられるのか──。
週刊ポスト2017630日号
 
 
これ「安倍政権 中曽根氏らが大切にした政治の高潔さ残らず」と題したNEWSポストセブン6月22日 16:00の記事である。
 
 
戦後の政治家の中でこの中曽根康弘元首相ほど好き嫌いの激しく分かれた政治家はいない
当時の彼の手法は硬軟織り交ぜ政治と言えるのではないか。当時のタカ派は嫌われこそすれ、好きな政治家とは言えない風潮でもあった。どちらかと言えば、今の安倍首相よりはズル賢い手法であったが、どこか私には憎めなく思えた。だからではないが、私的には好きな政治家と言えた。最近の政治家を私は政治家とは呼べず政治屋と呼ぶが、唯一政治家と言えるのもこの中曽根康弘元首相とも思っている。政策成立後の国民受けを見れば、そんなにも憎めず、逆に私には清涼感も漂う時もあった程である。今の安倍首相の政治手法を見れば、中曽根さんが言う「畏しこむ謙虚さ」が無いと言うのも頷ける。まっ!言って見れば政治の華が無いと言う事が良く解かる。見方を変えれば謙虚さと言うよりもやり方が卑しいと私には見える。それが森友問題であり加計問題である。同じこと以上に中曽根さんはやった方だが、こんなに下手ではなく、終わってみればえっ!いつやったー、んー上手いなーと後で舌を巻く。私はそれが政治家と思った。が安倍さんの手法はまず、法に照らしては・・・・・どうかが先に来るから私は大嫌いである。