6年前の今日の東日本大震災を思い起こして

6年前の今日1446東日本大震災が発生した。その時には私リハビリ入院で病院に居た。
とてつもない揺れを経験した。こんな揺れは昭和39年の私が高校2年生の時の新潟地震の揺れ以来だった。その間何度か著名な自信あったが体感の揺れはそうだった。その時の様子を当時のブログに書いてあったので紹介したい。
 
2011031219:56
■昨日の三陸沖大地震を経験して-インフラの無い夜を明かして
 記事を書く前にまず、ブロ友の皆さん、それに私のブログを見てくれた人々に対しお見舞いの言葉やら大変ご心配をお掛けしました事、心より感謝を致しますと共に、お陰様にて私はこのようにブログの書ける環境にある事をお知らせ致します。ありがとうございました。
 それは昨日14時45、6分頃地鳴りが響き、突如建物が波を打った。三陸沖大地震の第1波である。本当にコンクリートの梁がぐにゃぐにゃと、こんにゃくのようにと言った表現がいいのかも知れない。とにかく今まで見たことの無い恐ろしい光景であった。
 その時私は病院に居り、電子申告をこの土日にやるため、自宅外泊のために病院の玄関に着いたところだった。たまたまそこは吹き抜けになっていて、2階の天井コンクリート梁が、むき出しになっているところだったので良く見えたのである。
 私がこう言う光景を見たのは確か昭和39年の高校2年の頃だったと思うが、新潟地震以来である。今回それと比べてみると、時期が違うので比較は出来ないと思うが、今回の方がすごく震えたと感じられる。
 とにかくこの地震は私の63年の人生で最大に思え、今ここに生ある自分に本当に感謝したいと思った。
 昨日自宅で電気と水道の無い夜を過し、本当に闇夜の世界を体験した。我が家は私と妻、息子夫婦に小5、小1、と3歳の園児と私の娘の8人家族である。電気と水が使えないため当然暖房はないし、水が無いため風呂とトイレも当然である。急いで夕方明るいうちに、懐中電灯と電池、それにロウソクと灯油用反射ストーブを2つほど灯油と共に用意した。たまたま2日前ガソリン、灯油が何円か値上がりすると言うので妻が買いだめしてたのが今回役に立った。お陰で灯油を気にしないでストーブを使えたのが助かった。とにかく夜は冷え込むので早く寝る事にした。私達夫婦は湯たんぽ代わりに、一番上の孫と3人一緒にくっついて寝た。今回のこの地震は最近の災害特徴である電気と水のいわゆるインフラの大切さを改めて感じさせられた。
 ほんの先ほどの夕方、電気と水道が復旧した。本当に嬉しかった。自然と涙が出た。
 今こうして幸せにもブログを書いてる自分が不思議であるが、まだ、被災地で救助を待ってる人々を思う時、私は自分の幸せに今、涙を流しながらこのブログを書いております。
2日休んで2011031508:14
■未曾有の大地震と携帯電話やIT技術革新の生き証人としての伝達者として
 我々団塊の世代第二次世界大戦後の1947年から1949年までの3年間に亘る第一次ベビーブームに出生した世代)は良くも悪くも日本国家の担い手として第二次世界大戦後の復興に多大なる功績を残した事は否めない事実と思う。この団塊の世代は様々な現象や事件それにパソコンと携帯電話の普及に時代と共に生き、古くは初のアジアのオリンピック、東京オリンピック開催から現在の大地震まで、昭和30年代の白黒テレビから東京オリンピック時のカラーテレビ、以後の全自動洗濯機や大型冷蔵庫、家庭用エアコン等の電気機器の普及、それにコピーや写真等のデジタル化、通信技術向上によるインターネットやワンセグ、デジタル放送の普及と枚挙にいとまがない。
 我々団塊の世代はこのように何100年での速度を僅か1代の時代で経験し、今後にその生き様を伝達する生き証人として、今の若い世代に引き継ぐ責任が、ノルマと課された事を自覚しなくてはならない。
 そのために我々は今現在をジッと見つめ確かなる情報をしっかりと頭に叩き込まなければならないだろう。
 
 
以上が当時のブログの抜粋である。
6年後の今読み返してみて、自分ながら色んな事考えたんだなぁと感慨にふけ自然のどう言う訳か涙している。
未だ行方不明の方々がいらっしゃること考えれば、この事を風化してはいけない事をつくづく感じた今日である。