またあの日(昭和60年8月12日の日航機墜落事故)がやって来た、出来得れば当時の中曽根総理大臣及び加藤紘一防衛庁長官には真相を話してもらいたい

 墜落した123便には、小学校3年生の子どもが一人で乗っていた。健君(享年9)は、憧れのPL学園の野球を応援するため、大阪の親戚に向かう途中、事故にあった。
 
■遺族たちの思い 美谷島邦子さん(58才)
 「あの子と別れた3日目の朝、急斜面を這うように登りました。リュックには、子どもの着替えと山靴、雨合羽を入れていきました。山頂は地獄絵でした。炎上してまだ熱い機体を見て、生きているかもしれないという最後の望みの糸が切れました。遺体が見つかる日の前の晩、夢を見ました。あの子の体がそのまま空に登り、星になっていく夢でした。遺体が見つかりました。焼けた123便の座席12Kと書いているワッペンと、小さくないイボのある右手だけ、顔も左手も足もありませんでした。でも、やっと会えた。もう一人にはさせないよと心で叫んでいました」。
 
 美谷島さんは、遺族どおしの支えあいが必要だと考え、文集「茜雲」を作った。
 「家族たちが書くことと、読むことによって支えあい、あの人もがんばっている、私だけではないんだと思えるんです。お互い前に進めるように」。
 美谷島さんは、自宅の屋上に事故の資料や遺族から寄せられた手紙を保管している。その数は、コンテナケース14箱になった。
 
 
これ「遺族たちの思い」と題した1985年(昭和60年)に起きた日航機墜落事故で、憧れのPL学園高校の野球応援のため大阪の親戚にたった一人で行く途中に巻き込まれ亡くなった小学3年生の健君(享年9歳)の母美谷島邦子さんのコラムである。
 
 
私は毎年この日になるとこの子の事を思い出し涙する。そして毎年本当にあの事故は事故調査委員会が公表した報告書通り「圧力隔壁の破損」だったのか今もって信じられないと言う気持ちである。何故ならこの民間飛行機が国際救難信号スコーク77を発令して、羽田や横田基地に向かわず、御巣鷹の尾根に激突した事だからである。「圧力隔壁の破損」と言うより、自衛隊機の誤射で破損の方がリアルであるし、全てに辻褄が合うからである。 私みたいな原理原則主義者にはどうしてもあの事故は不可抗力には思えないのである。ぶりかえして悪いがこの事故原因は「圧力隔壁の破損だった」=「事故調査委員会の推測」と言う事で片づけられている。色んな本を見たり、徹底した調査で小説を書く故山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」にも書かれているが、調べれば調べるほど辻褄が合わなくなってくる。そう思うとどうしても国家権力に突き当たるのである。だからこそ私は、事故当時の日本国総理大臣中曽根康弘さん、当時の内閣官房長官であった藤波孝生さんは亡くなってるから除外しても、今は引退したが加藤の乱の当時の防衛庁長官加藤紘一さんは話す義務があると思う。面白いのが、故山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」の中でこの事に疑義を感じて設定した人の名を藤波と言う名にしてるのは、やはり山崎豊子さんも不可解と感じたから藤波と言う名の登場人物としたと考えるのは私だけなのだろうか。