520人の犠牲者を出した1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故で、群馬県警が業務上過失致死傷容疑で書類送検した20人のうち、ボーイング社の4人を除く日本航空と運輸省(現・国土交通省)の16人の供述の全容が11日、明らかになった。
「ボ社に任せた」とする責任回避の姿勢が目立ち、整備で入念に指示すれば「事故を防げた」との複数の供述が存在していた。
事故は12日で発生から33年で、今年12月で送検から30年。ボ社側が事情聴取を拒否したまま、20人は不起訴となっており、16人全員の供述全容が判明したのは初めて。
関係者によると、領収検査を担当した当時の検査部長は調べに対し、(1)ボ社に任せれば安心(2)担当部がすぐ行ける東京でやる安心感(3)できる限り早くやれ―という背景があったと説明。「責任を感じるが、検査課長を信頼し、任せていた」と供述した。
これに対し、検査課長は「技術部がやってくれると判断した。検査部長は何もしなくてよいと言った。ボ社を信頼した」と供述。「義務を果たしたが、内容的に足りなかっただけだ」と主張した。
一方、技術部機体技術課長は「主管は検査部で、協議調整を受けておらず、責任は負わない」と強調。「ミス防止を考えることに無理がある」とも述べていた。
ある運輸省検査官は「国の検査は二次的、後見的」と主張。ただ、別の検査官は「国の検査は最後の砦(とりで)。道義的責任は感じている」とも話していた。
上司ら5人は「事故機と気付かなかったが、修理した機だからよく見てくれと指示し、確実に検査すれば、事故は防止できた」「修理したことは頭にあったが、通常と同じ指示を与えただけ。指示していれば、事故は防げたと思う」などとする同様の見解を述べた。
私の高校時代の夢はパイロットになる事だった。パイロットになりたいと言っても、田舎の高校生だ、教師も先輩にも誰もその事に詳しい者居ず、今みたいにスマフォ等ある筈もなく、全く自らの手探り状況だった。パイロット養成学校に行ったら等と考える筈もなく、理系志望の私は簡単に大学の工学系に狙いを定めた。結果航空宇宙工学に突き当たった。メジャーな学科ではないから設置されている大学には限りがあった。なんと国立では殆ど旧帝大であった。私の頭脳では行ける筈もなく、私立に狙いを定めたら僅か当時は日大にあるくらいであったが、父親がガンで手術のため会社を辞めざるを得なくなったため、当然に私立は無理になってしまった。しょうがなく二次志望の建築学に進んだのだが、物理的に無理な項目があった。それは視力の弱さであった。私はガキの頃から暗い所でのマンガの読み過ぎで、小学1年から近視になりメガネが必需品だった。今ではコンタクトレンズでどうにもなったろうが、当時はコンタクトレンズが出始めで今みたいなソフト等ある筈もなく、ハードだけだった。驚くのはその値段である確か2~3万円以上したと記憶している。驚くなかれ当時の大卒の初任給が3~3.5万円した時代である、如何に高かったか解りそうなものである。しかも眼医者に目に異物を入れるんですよ我慢できますか?と聞かれる始末。前記の二次志望お解り頂けると思う。
話がそれたが、私は以来パイロットに関係する航空機が忘れられず、病前は出張するにも、航空機を使い、その出航時間より乗る機種を優先して、現在ある航空機のほぼ全ては乗りつくした。一番好きなのはやはりB777(トリプルセブン)とA320だった。病後今では当時なかったA380に乗るのが夢である。それも最初にそれをアジアで就航したシンガポール航空の便で、大好きなシンガポールに行って、ニュートンサーカスに行きロブスターをたらふく食べるのが最大の夢である。
それだけ好きな航空機である。33年前の8月12日の日航機墜落事故の詳細は全てむさぼり読んだ。そして今も不可思議な事故を再検証すべく、下記書物をここ1週間で買い揃え改めてリセットして読むつもりである。
これらの事故書物を読めば読むほど、日航機墜落事故は航空自衛隊機の誤射の疑いがどうしても拭い去ることが出来ないのである。
当時の中曽根政権の中曽根首相は現在100才になっても健在である。当然に当時の防衛庁より真実の報告を受けてる筈である。政治に時効は無いかもしれないが、中曽根首相は健在中に事の真相を国の損得に拘わらず、話すべきであるし、話す事が義務でもあるとも思う。でないと死んでも死にきれないと私は思う。話して楽になろう中曽根さん!
読んだ本
これから読もうとする本
日航123便墜落 遺物は真相を語る
著者:池田 昌昭
JAL123便墜落事故 自衛隊&米軍陰謀説の真相
著者:杉江 弘
出版社:宝島社 1,620
出版社:新潮社 ¥1,500