最近の安倍首相の政治姿勢、独断専行は極めて危険だ

 集団的自衛権の行使容認をめぐって、「安倍政治」の本質が明確になった。平和主義を変更しただけではない。目的のためなら、論理や議論を脇に押しやってでも、なりふり構わず突き進む姿勢があらわになった。
 論理を積み重ね、議論を戦わせて結論を得る。いわぱ「高度な言葉の戦い」が民主政治の要のはずである。その認識が安倍政権は希薄なようだ。
 言葉のやりとりはしている。しかし、かみ合わない。それどころか安倍晋三首相は、質問にまともに答えようとしない場合も結構多いのである。
 今月1日、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した直後の首相会見。記者から、自衛隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性について聞かれた際の答えが典型例といえる。
 安倍首相は、自衛隊員に関してはひと言も触れず、憲法解釈の基本的な考え方は従来と何ら変わらないとまで述べた。解釈変更で憲法9条を事実上空文化しておきながらである。
 違う話を持ち出してごまかそうとする。事実と異なる説明をしてでも言いくるめようとする。これでは国民の信頼はとても得られない。
 このやり方では議論も成り立たない。質問に的確に答えて、再質問や意見が出され、さらに答えたり意見を述べたりするという繰り返しがなければ、話は積み上がらないからだ。
 安倍首相には好都合なのかもしれない。質疑を適当にやり過ごし、あとは「自民一強」という数の力で決めてしまえばいいからである。
 しかし、「言論の府」としておかしいのは明らかだ。手本となるべき政権や国会がろくに議論もできないようでは、民主主義の先行きは暗い。
 行使を容認するための理屈も乱暴過ぎる。憲法の解釈変更に当たり安倍政権が持ち出したのは、集団的自衛権の行使を禁じた1972年の政府見解だ。
集団的自衛権の行使はもともと、憲法が認める必要最小限度の実力行使を超えるとして認められてこなかった。それを今回は、安全保障環境の変化などから必要最小限度に含まれると結論付けたのである。
 同じ論理構成なのに結論がひっくり返っている。「容認ありき」で理屈を後付けしようとするからこうなるのだ。
 論理的であるか、理屈がきちんと通っているかどうかは極めて大事だ。それがなくなれば、感情が赴くままの社会になりかねない。安倍政権はこの点でも悪い例を残してしまった。
 なりふり構わぬ安倍政権に対し、与野党ともブレーキ役がいないのも心配だ。かって自民党内には政権の抑制役がいて、バランスを取っていたものだ。
 今後ますます国民監視の役割が増す。いいことはいい、駄目なものは駄目と声を上げる必要がある。民主政治を保てるかどうかの瀬戸際にあるからだ。

これ「安倍氏の政治姿勢 独断専行は極めて危険」と題したあるローカル紙の社説である。

 私はこの記事を読んでもっともと思って読んだので今回は論評は無い。