長崎慰霊祭における平和の会代表の抗議に「見解の相違」』と片づけた安倍首相、先人の苦労を踏みにじったも同然である

 長崎市で9日にあった被爆5団体による安倍晋三首相への要望の場でも、集団的自衛権が主なテーマになった。長崎原爆遺族会の正林克記会長は「緊張緩和への政府の確かな取り組みさえあれば、火に油を注ぐような集団的自衛権は要りません」と迫った。
 これに対し、安倍首相は「平和国家としての歩みは寸分も変わらない。(集団的自衛権について)丁寧に説明する努力をすることで必ず理解をいただけると思う」と応じた。終了後、被爆者の一人が「納得してませんよ」と声をかけると、「見解の相違です」と表情を変えずに言い、会場を後にした。
 長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄(すみてる)会長は「安倍政権になってから、被爆者が訴えてきた方向と反対に進んでいる」と表情を曇らせた。被爆者と首相のやり取りを聞いていた田上富久・長崎市長は「絶対に戦争をしてはいけないという原点は、理屈でなく被爆者の思いだ。被爆地で、首相にそれがどれだけ伝わったのかよくわからないが、伝えていくのが(被爆地の)大事な役目だと思う」と話した。

これ『被爆者「集団的自衛権、要らぬ」 首相「見解の相違」』と題した朝日新聞デジタル 8月10日(日)0時3分の配信記事である。

 「集団的自衛権の行使容認」を閣議決定した安倍首相は平和の会代表の抗議に「見解の相違」と片づけた。確かに人は顔が違うように皆それぞれ考え方も違うのは当然である。しかし、それは常人の場合による。安倍首相はいやしくも一国の宰相であり常人とは違う。自説を押し付けられない立ち位置に居る。だからと言って全て国民の言う通りにせいとも言ってる訳でもないのである。何故に今回この憲法解釈が危惧されるかと言えば、民主主義と言うよりは、戦争体験をし、尚且つ唯一の被爆国だからであり、だからこそ旧来の政権党自民党をはじめとし、先人の内閣がこぞって「集団的自衛権」は憲法上是とはしない旨を堅持して来たのであり。云わばこの問題は政治上タブーと言っても良かった筈であるが、安倍首相はそれに手を付けてしまった。これは戦後の被爆国への挑戦と言えるのである。これは理屈ではない。生きて来た戦後の敗戦国日本国そのものへの挑戦とも言えるのである。それを「見解の相違」で簡単に片づけられるものではないし、それこそ民主主義的に国民の意見を聞いてからやるべきを自慢の気(け)で勝手にやったと言うべきでもある。それが端的に現れているのはどのマスコミにも報道されているが、慰霊祭での首相の挨拶文である。何年もの間コピペで通し、変えたのは年度と経過年数のみである事から解る。今年だけは、本年だけは、「集団的自衛権の行使容認」を閣議決定した今年だけは首相自身の生の声で発するべきでなかったのか。一番責められるべきは、確かに宰相自身ではあるが、今の政権党自民党議員たちの責任と言えるのである。これが後世にどのような評価をもたらすかは今は断定は出来ないが、少なくても政治史上あの小泉元首相と並び、決して是としない評価になるものと私は確信している