恒例の佐々木毅元東大学長のコラムを紹介します

今、国民の耳目は新型コロナウイルスによる肺炎(COVID19)の広がりにくぎ付けになっている。感染の広がり具合を考えると、絶対に安全な場所があるとは思えない。クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」での感染拡大のスピードの速さには驚かされたが、それに限らず、高齢者施設、病院、学校など、人の多く集まる場所はどこも息が抜けない状態が続く。卒業や入学期をこれから迎える学校関係者にとっては未曽有の危機管理が必要になる。
 こうした危機はいつか終わるが、それにはどのくらいの時間がかかるのか、今のところなお希望的観測の域を出ない。もちろん、危機の終息は政府などの対応能力によってそれなりに左右される。
 対応能力にはハードとソフトの二つの側面がある。ハードとは提供できる医療サービスの質と量であり、急に増やすわけにはいかない(ただし、中国の武漢では短期間で病院を造ったというニュースもあったが、それがどこでも可能なわけではない)。これに対してソフトとは、ハードを有効に活用して国民の生命を守る政治的・政策的知恵のことである。日本政府が問われているのは、こうした知恵である。
 中国の習近平政権は新型肺炎の感染拡大を「国家の危機」であると宣言し、それとの闘いを「戦争」と呼んでいる。これは中国の政治的伝統からすれば甚だ分かりやすい反応である。すなわち、歴代王朝は授かった天命を失って相次いで崩壊したが、その兆候となるのが飢饉や疫病、民衆の蜂起、侵略などとされてきた。記憶に新しいところでは香港での民衆蜂起があり、そして武漢での感染拡大と、政治的伝統に沿うかのように「王朝」の危機のシナリオが作動しているように見えてくる。
 中国の伝統ではこうした局面において清廉潔白な儒学者が諫言を皇帝に対して行い、命を落とすことになるが、今回早くから新型肺炎の発生を警告し、自らそれに感染して死亡した眼科医・李文亮氏にかつての儒学者の姿を重ね合わせる見方が少なくないという。このように考えると習政権が「国家の危機」を口にする雰囲気は理解できよう。
 翻って日本の状況を考えると、新型肺炎への感染者数にしろ、死者数にしろ、中国とは桁違いに少ないとはいえ、のんきな印象が否めない。国会でも問題になったように3大臣が地元の新年会などを理由に閣僚会議を欠席したことにも表れているように、当事者意識が薄い。
 「ダイヤモンド・プリンセス」の扱いについても、そのハード、ソフト両方についてさまざまな疑問の声が上がっている。素朴な言い方すれば、政府の対応能力の間尺に合わない過大な難問を引き受け、結果として日本に対する国際評価を高めることにつながらなかったと言わざるを得ない。そして日本への渡航に警告を発する国々が増えている。
 こうした中で安倍政権への支持率は下落している。共同通信の調査によれば、支持率は8.3㌽下落して41%に、不支持率は9.4㌽増えて46.1%になった。「桜を見る会」などを巡る答弁への不信感が原因と考えられるが、これからは新型肺炎対策の有効性も判断基準に加わる。言うまでもなく、衷只五輪・パラリンピックを控え、新型肺炎の速やかな封じ込めに成果を上げることは最大の使命であろう。日本の宣伝のための大イベントがその反対の結果にならないためにも。
 日本経済は昨年の10~12月期に年率6.3%のマイナス成長にすでに陥ったが、それに新型肺炎の影響による経済活動の停滞やインバウンド(訪日外国人客)需要の急減などが加わる。
その影響はなお予測し難いが、アベノミクスの成果を無にするような下押し圧力が加わるのではないか。安倍政権の前途は新型肺炎の流行によって、にわかに視界不良となりつつある。(元東大学長)


これ「新型コロナの衝撃」と題したあるローカル紙令和2年2月27日の朝刊記事である。


いつもの佐々木毅さんの記事です。紹介いたします。