元連合赤軍幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚と酷似してる仙石由人前官房長官

 我々団塊の世代の若き日の反体制運動の象徴的事件の主役である永田洋子(ひろこ)が亡くなった。これについては詳しい毎日新聞の報道があるので下記に紹介する。
 先鋭化した武力闘争で71~72年に起きた一連の連合赤軍事件の指導者、永田洋子死刑囚(65)が5日、静かに息を引き取った。銃と暴力で血塗られた革命思想は「総括」と称して仲間を死に追いやり、あさま山荘での壮絶な銃撃戦で途絶えた。事件から40年。かつての最高幹部の死は一つの時代の終わりを告げた。
 群馬県榛名山や迦葉山の山岳アジトなどで12人の同志の命を奪った「山岳アジト事件」(71年12月~72年2月)。
 永田死刑囚は同志の指導者として次々とメンバーに「総括」の名の下に自己批判を迫った。総括はエスカレートし、他のメンバーに「総括援助」と称して暴力を加えさせるようになった。
 何人も取り囲んで殴打し、緊縛して極寒の山中に放置した。死亡すると穴に埋めた。兄弟でアジトに潜伏した同志もおり、弟は兄を泣きながら殴った。妊娠8カ月で総括を迫られ、暴行を加えられて死亡した女性もいた。
 13人の殺人罪、1人の傷害致死罪に問われた。1審公判で非を認め、反省を口にしたものの、証人尋問で当事者を前に大声で笑い、判決では「人命蔑視の精神を表すものとして見逃すことができない」と指摘された。2審では「武装闘争は今後も起こる。連合赤軍武装闘争の経験の総括も、今後の闘争に生かさなければならない」とも語っていた。
 裁判では「自分一人の責任ではない」と、元被告(獄中自殺)に責任をかぶせたが、82年には獄中で「十六の墓標」を出版し、革命家としての自身の半生を詳細につづった。獄中からの作品発表は多く、モデルにした映画も公開された。
 一方で、84年には控訴審公判中に椅子から滑り落ちて倒れるなど、脳腫瘍の症状が表れた。93年には「腫瘍の治療が行われていない」として、病院への移送と、国と手術した病院に慰謝料を求める訴訟も起こしていた。
 
以上である。
 
 現政権党のトップの菅首相と№2の前官房長官の仙石由人ももとはと言えば反体制派の学生運動家であり社民連社会党の一員だった。ある民主党議員が漏らした重大な一言がある。「自分たちの身が危険に晒されれば、たとえ仲間でも容赦なく"総括"し、粛清する。これが菅さんや仙谷さんの本性です。」と。これではまるで典型的な左翼の発想であり、つまり「当時の永田洋子達とそっくりな連合赤軍」と同じではないのかと。
 本当にこれでもかこれでもかとしつこい小沢叩きは「連合赤軍の粛清」そのものである。

 こう言う手合いには政治の中枢に居られては似つかわしくないと私は思う。仙石の顔を見てると本当に当時の連合赤軍の姿がダブって見えるのは私だけであろうか。