今回の「モリカケ」で分かった役所の裏ルールと言うか本音をヤメ官古賀茂明さんが明かしてくれた

 文書は「存在しない」、「廃棄した」、「存在するが秘密だから開示できない」「開示はするが秘密の部分は黒塗りにする」「ないと思ったらあった、知らないうちに改ざんされていた」「存在したが個人メモに過ぎない、本人に聞いたら書いたような気がすると言っているがよくわからない」……。
 
 役所の文書に関して呆れるようなニュースが、連日報じられている。
 
 公文書管理法第1条には公文書は、「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」であり、その管理・利用は「現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする」と書いてあることが、最近のニュースで頻繁に紹介されている。また情報公開法第1条にも、「国民に説明する責務が全うされるようにする」ことと「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」と書いてある。
 つまり、公文書の適切な管理と情報公開は、日本の民主主義を支える基盤だという位置づけだ。
 これが当然の前提だと考えると、現在報じられているような事態が生じることは、「およそ考えられない」「とんでもないこと」である。
 しかし、30年以上官僚を務め、情報公開の推進に関わった経験もある私から見れば、現在起きていることは、「霞が関の常識」から見れば、「当たり前」であって、驚くことではない。
 では、官僚にとって役所で作る文書に関する基本哲学とは、いったいどんなものなのか?官僚の文書に関する哲学を四つのポイントにまとめてみた。
 
1)文書は、国民の財産ではない。
 官僚には、役所で作る文書が国民の財産だという意識はないと言って良い。役所にいる時にそんな意識を持っている官僚に会ったことはなかった。
 
2)文書は責任追及の根拠となる危険物である。
 そもそも、官僚が文書を隠したり公開を制限したりするのは、それが、自分たちへの批判、責任追及の根拠として使われる可能性があるという意識を非常に強く持っているからだ。どうして、そういうリスクを強く意識するかというと、官僚たちの仕事の多くが、政治家や自分の役所の利権を作り、維持するために行われていることが多く、文書には、その直接的な証拠、あるいは、それを推認させる事実が記録されていることが多いからである。したがって、そのような文書は本来はない方が良く、もちろん公開などできるだけしない方が良いということになる。
 
3)文書は自分たちの仕事のために使う官僚の財産である。
 一方で、仕事を進めるうえでは文書を作ることは必須である。内部で検討を重ねる時には、それまでの経緯を正確に記録しておかないと、その先の議論が混乱するし、最終的に上司の承認を得るためには、説明資料が必要となるからである。つまり、文書は、自分たちの仕事を進めるために作るものだという意識である。
 
4)仕事に必要な文書は永久保存しなければならない。
 この考え方には、三つの側面がある。第一に、官僚の生い立ちとの関連だ。エリート官僚たちは、優秀だと言われるが、その意味するところは、受験競争で優秀だったということだ。その優秀さを支えるのが、過去問である。過去問を全て正解する。それが受験競争の勝者になる道である。
 しかし、そこで優秀さを示せたからと言って、官僚に創造力があるかというと、むしろ、その逆である。多くの官僚は、白紙に絵を描けと言われるとほとんどお手上げ状態になる。どんな課題が与えられても、最初にやることは前例の調査だ。何十年前までも遡って、資料を集め、それを深く分析して、現在の課題に当てはめて答えを出す。上司に説明するときも、過去はこうでしたというのを最大の正当化の根拠とする。
 第二の側面は、他省庁との権限争いだ。官僚は自分たちの縄張りに異常なまでの執着を示す。なぜなら、縄張りが大きければ大きいほど、天下り利権の可能性も広がるからだ。そのため、どんな役所も、社会・経済の変化に伴って生じる新たな変化を、常に縄張り拡大のチャンス、逆に言えば、縄張りを侵される危機と考える。例えば、新たな産業が芽生え、それをどの役所が所管するのかという争いが生じたとき、過去の争いを解決した時の経緯や最終判断の前提として両省庁が認めた考え方などが書かれた文書を詳細に検討して、新たな縄張りの境界線を確定する交渉に使うのである。
 第三の側面は、責任回避策としての側面だ。自分たちが責任追及を受ける事態が生じたときに、残してある文書のうち都合の良い資料だけは、開示して言い訳に使うことができる。
 これら三つの理由から、必要な資料、あるいは、必要とは言えなくても、「将来使わないことが確実とまでは言えない」資料は、「念のため」すべて保存される。そして、課長が、「あの時の資料探してくれないか」と言えば、1年生や係長が地下の倉庫や、時には、本省からは遠く離れたところにある倉庫にある埃だらけの資料を、マスクをかけて隅から隅まで探索する。ほどなく、「ありました」と言って資料は出てくるものなのだ。
 しかし、必要な資料はほとんど残しておくということと、それを国民に対して公開するということとは全く別問題である。それは、(1)、(2)、(3)の考え方からすれば当然のことで、文書は自分たちのものであるから、見せるのは、決して危ないことが起きないと確信できる場合に限るということになる。
 したがって、同じ文書であっても、何か世の中で問題となっている事件に関連して、自分たちの責任が追及される可能性のある文書について、課長が、「あの文書あるかな?」と聞けば、阿吽の呼吸で、部下は、「探しましたが見つかりませんでした」と回答してくるのである。
 そんな官僚たちの「公文書公開に関する本音の6原則」をまとめてみたので紹介しよう。
 
1)文書は原則として公開しない。
 これまでの解説から、どうしてこうなるかは説明の必要はないだろう。
 面白い例としては、経産省で私が仕事をしていたころ、パソコンでワードを立ち上げると、白紙の文書ではなく、上の欄外に「機密性」という表示がデフォルトで打ち込まれた形で表示された。これは、この文書は、秘密保護の対象となる文書であることを示していて、無条件で開示されることはできないという意味である。
 つまり、文書は原則公開ではなく、全ての文書は、秘密文書として作成をはじめるわけだ。これを全面開示できる文書にするためには、上の欄外の「機密性」という表現を削除することが必要で、作成者に「本当に全面公開していいのか?」と問いかける仕組みになっている。「公開して問題が生じたら、君の責任だよ」という心理的歯止めをかけているのだ。
2)公開する場合でも、黒塗り部分を多くする。
 これも、説明の必要はないだろう。危険物である公文書は、公開するとしても、可能な限り公開部分は少なくする。官僚のリスクを嫌う性癖ともあいまって、そこまでやるかというくらい、黒塗りを増やすのだ。その結果、よく国会などでも野党議員が「ノリ弁」と揶揄するような、真っ黒な文書となって公開されることになる。
3)審査請求で負けない限り、余計な譲歩はしない。
 情報公開請求された文書について、不存在、不開示、一部不開示などの対応をすると、情報公開請求者から「審査請求」という形で不服申し立てが行われることがある。その場合各役所は、総務省の情報公開・個人情報保護審査会に諮問しなければならない。この審査会は第三者機関なので、いい加減な理由で不開示にしていると、それは不当だという答申が出されて、開示せざるを得ない状況になる可能性がある。しかし、審査会の審理が始まっても、諦めず、恥ずかしくても最後まで戦うのが原則である。これは、とにかく開示の範囲を狭くするという意味もあるし、後述する(6)の時間をかけるという意味もある。
4)絶対に公開できない情報は、個人的なメモ扱いとし、公文書としては存在しないことにする。
 政治家からの圧力などについては、表に出ると大変なことになるので、そもそもそういう文書を公文書にすること自体が危険である。したがって、そのような文書は、秘密の公文書とするのではなく、公文書ではない扱いとして保存する。もちろん、役所として仕事に使うために保存しているのだから、本来は公文書であるが、あくまでも、個人が勝手に自分のためだけに保存しておいたものという「ことにする」のである。こうした文書は、開示請求をしても「不存在」という答えが返ってくる。万一、その存在がわかった場合も、「個人の備忘録」であって、公文書ではないという言い訳がなされる。愛媛県知事が、加計学園関係者と愛媛県今治市の職員が柳瀬唯夫総理秘書官(当時)と面会していた記録を公表した時に使った言い訳もこれである。
5)公開が避けられない公文書には、問題のない内容だけを記す。
 文書の中には、存在を隠すことができないものがある。例えば、近畿財務局の土地の売買契約に関する決裁文書などは、存在することが確実な文書である。また、正式に開催された審議会の議事録なども存在しないとは言えない。
 そこで、このような文書には、当たり障りのない内容だけを記録し、問題となりそうな内容は、削除するか、丸めて問題がないような書き方にして残すのが常である。したがって、審議会議事録は、ある意味、常に改ざんされていると考えた方が良い。
 森友学園関連で、近畿財務局や財務本省の理財局が、安倍昭恵夫人や政治家の名前を決裁文書に記録したのは、この原則から大きく逸脱したもので、役人としては大チョンボと言われる行動だ。もちろん、書いて残した本人は、それを承知のはずだから、現場では、いかにこの取引に対する不満が大きかったのかが想像される。
6)公開する場合もなるべく時間をかけて出す。
 公文書の開示を求めてくる場合には、何らかの目的があるはずである。その場合、その目的となる行為を行うタイムリミットがあることも多い。例えば、記事を書きたい、本を出す時の資料にしたいなどという場合には、ある期日までにその情報が出てこなければ、記事化自体を諦めたり、その情報抜きで記事を構成するということになることもある。
 また、時間が経つと、世論の関心が薄れ、記事にしてもあまり読まれなくなる可能性もある。
 したがって、同じ公開をするにしても、少しでも遅らせた方が、官僚にとっては得だということになる。公開請求をすると、なんだかんだと言って、開示請求の書き直しを求めたり、特別の事情があると言って、原則30日とされている回答期限を延ばしたり、審査請求しても簡単には譲歩しなかったり、開示判断が出てもさらに理由をつけて遅らせるというのが、役所の常とう手段だ。
 その遅延行為が酷ければ酷いほど、実は、その文書の内容が役所にとって都合の悪いものだと考えた方が良い。
 以上述べたような、公文書は国民の財産だという建前とは全く反対の官僚たちの意識を理解すると、今起きていることは、極めてよく理解できる。
 ちなみに、行政府の中にいる与党政治家(大臣をはじめとする政務三役、総理補佐官など)も、実は、立場上官僚と同じ利害意識を持っているから、情報公開を積極的に進めようという気持ちにならない。
 私たちは、こうした状況をよく理解したうえで、情報公開をより積極的に利用して、官僚にプレッシャーをかけ、制度の不備な点をクローズアップすることによって、国会での法律改正に生かしていかなければならない。政府は、関連する制度を見直すという姿勢を示しているが、官僚や与党政治家主導の公文書管理法や情報公開法改正では、どんなに頑張っても、単なるアリバイ作りに終わり、抜け穴がいくつも残ることになるだろう。そんなやり方では、公文書を官僚から国民のもとに取り返すことは絶対に不可能であることを肝に銘じ、国民主導の制度改正につなげるべきだ。
 ではどうしたらよいのか。
 この分野においてマスコミの果たす役割は極めて大きい。また、最近は、「情報公開クリアリングハウス」など、民間の情報公開を推進するNPOの活躍も著しい。そこで、マスコミが社を超えて横断的に連帯し、民間NPOと協力して、真に国民のためになる公文書管理と情報公開に関する制度改正案を提言してはどうだろうか。自分たちが提言したものであれば、マスコミも積極的に報じ、国民の関心も高まる。その結果、世論の支持も得られるから、より国民本位の制度改正につながるのではないだろうか。
 
 
これ『古賀茂明霞が関官僚の公文書公開の6原則と本音」』と題したAERAdot 4/23() 7:00配信の記事である。
 
 
以前よりの私の役人の定義が、この古賀さんに裏付けられた気がしてうれしい気持ちだ。
以前から私はヤメ官4人各氏(=高橋洋一、八幡和郎、岸 博幸の3人とこの古賀茂明氏)の内この古賀さんを除いた3人を批判して来たが、やはりこの古賀さんだけは、前の3人とは質が違う。同じ官僚だったのにと思うが、これら4人の方々の記事を読めば良く解る。私は今ではこの古賀さんのファンの一人でもある。
私の役人の定義は「役人・公務員とは与えられた仕事は忠実にこなし、決して前例を作らず、前例を踏襲し、責任と言う言葉に異常に反応し、その回避には天文学的才能を発揮する人種である。」としたがこの古賀さんに正に裏付けられたと言って良い。
古賀さんが言ってるように、こんな文章・書類等無い方が良いのだが、役人特有の責任の所在の裏付けの証となるものだから必要となるのだろう。役所行政も人間皆、安倍首相みたいにウソを言わず、正直な人間だけだったら、こんな書類等一切なくせばよいのだが、悪い、ズルイやつがいるが限り、ルールや法律が必要になる。それらがいらない時代何ぞ夢のまた夢だ。