戦前の日本を売った張本人岸信介、今その孫が更に日本を売ろうとしている

 憲法改正を目指し、対米自立を望んだ岸信介元首相は、首相に就任する前から米国の冷戦戦略に取り込まれていた―。そんな認識を示す文書を、日米外交に深く携わった元米国務次官補が残していた。孫の安倍晋三首相の政治姿勢にも強い影響を与えた岸氏だが、背景を探ると、もう一つの顔が浮かび上がった。
 
 文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の80年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
  「戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後、(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇アメリカ」=2010年刊から)
  63年の同僚宛ての手紙にも「われわれは54年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
  55年の保守合同自民党が誕生する直前の混乱期。保守派リーダーの一人だった岸氏は、米国とどうつながっていたのだろうか。
 
■民主、自由両党の合同前に
 保守合同前夜の195579日午後、東京の在日米大使館。当時の民主党幹事長だった岸信介元首相は、大使館のジョージ・モーガン参事官に招かれた。「キングサイズのスコッチ・アンド・ソーダ」を片手に約3時間半。モーガン氏の質問に冗舌に答える岸氏の姿があった。
 膨大な米公文書の調査などを基に戦後の日米関係を米国側の視点で描いた「『日米関係』とは何だったのか」の著者、米アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(68)が90年代に見つけた大使館から本国への報告文書には、その時の様子が詳しく記録されている。
  民主、自由両党の合同はまだ時期が公になっていなかった。民主党を主導する岸氏は、合同が11月ごろになるとの見通し、新党首選びの状況、憲法改正や積極的な反共外交政策の採用、再軍備促進といった新党の政策などについて情報を「提供」(シャラー氏)。社会党の動向に関する推察も伝えた。いずれも米国側が欲していたとみられる。
 
■岸氏こそ米国の政策に合致
 岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
  50年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、5412月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
  シャラー氏によると、50年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。
 
■蜜月関係が権力へ導いた
 シャラー氏は「岸氏は米国に取り込まれたというより、むしろ積極的に取り入ろうとしていたと私は考える」。日米安保条約の不平等性の解消を目指した岸氏だが、「米国の信頼を得なければ、それは成し遂げられないし、信頼されれば国内での自身の政治力も増すという計算もあっただろう」とみる。
  55年、鳩山政権からの条約改定申し入れを一蹴した米国は、57年の岸政権からの交渉提起には応じ、60年に改定は実現した。
  一方でシャラー氏は、岸氏が首相就任後、米中央情報局(CIA)と秘密の資金提供の関係を結んだと著書で明記した。「権力の座に駆け上がる過程で米国と築いた濃密な関係が、資金提供の土壌になったのもまた事実だ」と指摘した。
 
■岸氏の戦略「独立のために従属」
▼「岸信介証言録」などの著書がある原彬久・東京国際大名誉教授
  「cultivate」の意味について、私は「米国は自分たちの望む方向に動くように岸氏を取り込んだ」というニュアンスに受け取った。米国は岸氏を利用しようとしていた。彼らは岸氏を高く評価していたが、利害関係とは別のところで尊敬したり評価したりはしない。そんな生やさしい世界ではない。一方、岸氏も国内外の共産勢力と戦うため、米国を利用しようとしていた。だから米国の信頼を得るために情報を提供することもあろう。政治家として熟察し、いろんな計算の下で動いていたといえる。
  CIAから資金提供を受けることは道義的に問題ありだが、当時は革新勢力も旧ソ連から資金援助を受けていた。強力な保守政権を築き米国から何とかして自立したい、選挙で革新勢力に負けたくない、との思いから岸氏はきわどい政治判断をしたのではないか。
  逆説的な言い方だが、米国から独立するために従属する―というのが、皮肉にも岸氏の対米戦略だったと考える。
 
 
これ『「岸信介を傘下に納めた」日米双方の思惑が築いた蜜月関係』と題した西日本新聞1012()830分の配信記事である。
 
 
 確かに興味深い情報である。我日本国が今でも米国の従属国(植民地と言い換えても良い)である事、それがここから始まったと言っても過言では無い。
 我日本国独立のために従属、言葉は良いが「小異を捨て大同に着く」そのものと言いたいのだろうが、要するに当時日本を売った事に他ならない。今その孫が更に日本を売ろうとしてる事(安保条約の自衛権)は何たる奇遇か。そのDNAは生きていた。限りなく悔しい事である。