またもや首相が逃げ切ったという感じの臨時国会の幕切れとなった。
安倍晋三首相主催の「桜を見る会」に関する野党の追及に、菅義偉官房長官や官僚らが矛盾だらけの説明を繰り返す一方、安倍首相はまともに対応しようとはしなかった。国会が閉幕した12月9日の記者会見も、「招待者の基準が曖昧であり、結果として招待者の数が膨れ上がってしまった」などとひとごとのような説明に終始した。
この間、日米貿易協定などの重要政策の審議は国民の視野から遠のいてしまった。自らの関与が疑われている問題について誠実に説明しようとしない安倍首相の倫理観の欠如した姿勢は、「森友・加計問題」以降繰り返されているが、今やそれが政界と官界にまで拡散している。
責任感が見られない安倍首相の姿勢
桜を見る会に対する安倍首相の説明回避の姿勢は徹底していた。不都合な事実関係が次々と表面化すると、首相官邸で記者団に一方的に説明する「ぶら下がり」を数回行い、それを免罪符だと考えたのか、予算委員会は結局開かれなかった。代わりに説明役を引き受けたのは内閣府の官僚や菅官房長官だったが、その説明も新たな事実を前に矛盾だらけとなっていった。
廃棄した出席者名簿がバックアップデータとして残っていた事実が出ると、菅官房長官は「バックアップデータは行政文書に該当しないことから、情報公開請求の対象にはならないと聞いている」と説明するしかなかった。記者からの質問に答えられないため、繰り返し秘書官に説明を求める菅長官のやる気のなさそうな映像が、安倍政権の体質を象徴していた。
国会審議では政権の成果を強調し、都合のいい主張を繰り返す。野党の追及には時に自席からヤジまで飛ばす。ところが不都合な事実が表面化すると、委員会出席を拒否し、普段はやらない「ぶら下がり」で一方的に話す。このような安倍首相の対応には、国民にきちんと説明しようという責任感は見られない。
9日の記者会見でも、問題なのは「招待者の基準が曖昧」だったことであり、自分の責任で見直すとして、自らの関与や後援会のかかわり方など問題とされている点については何も触れなかった。
首相の代わりに説明役を担わされた閣僚や官僚は、事実関係を明らかにすることよりも、安倍首相を傷つけないことを重視し、場当たり的につじつまを合わせようと無理な理屈を作り上げていった。そして、この理屈が破綻すると、知らぬ存ぜぬを通すしかなくなる。こうした光景に倫理感のかけらも感じることはできない。
安倍首相が軽視する議院内閣制の根幹
同じことは安倍政権でこれまで何度も繰り返されてきた。森友・加計問題が沸騰した2017年は、財務省の局長による公文書の改ざんや虚偽答弁まで明らかになった。中央省庁の局長が首相を守るために公務員としての最低限の矜持であるべき倫理観まで放棄した。そして、これだけの重い事実が明らかになったにもかかわらず、上司である麻生太郎財務相は責任も取らないまま今も財務相を続けている。
野党が憲法の規定に基づいて臨時国会召集を要求すると、外交日程などを理由に拒否し続け、あげくに9月に臨時国会を召集すると、委員会審議などしないまま、いきなり冒頭で衆院を解散してしまった。安倍首相は自分に不都合なことを国会で追及されることがどうしてもいやなようだ。
国会は、首相がやったことが犯罪であるかどうかを調べ判断するような場ではない。それは捜査機関の仕事である。国会の果たすべき役割は、国政が公正、公平に行われているかチェックすることである。予算の編成や執行、あるいは政策などが特定の人たちの利益になるよう恣意的に作られたりしていないか、執行されていないかなどをチェックするのである。
憲法には、内閣は行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負うと書かれている。内閣の行政運営について国会が問題ありと判断すれば、最終的手段として不信任決議を行うことができる。しかし、いきなりそこまでやらなくても日常的には、国会が本会議や委員会などの場で説明を求めたり改善を要求し、首相以下内閣のメンバーがそれにきちんと対応すればよい。内閣と国会があらゆることで対立したのでは国政は滞ってしまい、経済も社会も混乱する。
つまり、首相が国会の場できちんと説明し、問題があれば謝罪するなり改善するなりしていけばいいのである。それが議院内閣制の根幹である。ところが、安倍首相は明確な根拠を示さないまま自らの正当性を主張し、あとは頬かむりして時間が過ぎるのを待つということを繰り返している。これでは政権の透明性は失われ、国民の目の届かないところで限られた人たちだけの判断で、重要な事柄が決められてしまっているのではないかという疑念がわいてくる。
より深刻な問題は、「安倍一強」と言われる政治状況の中で首相のこうした姿勢が、政界や官界にも広がっていることだ。
桜を見る会のような問題が表面化しても、安倍首相は非を認めず、説明もしない。代わりに対応する官僚は、首相の対応に合わせて答弁したり、つじつまを合わせるための理屈を作り出さなければならなくなる。その結果、前述のように首相を守るために公文書を書き換えるというような行為も出てくるのである。逆に首相の対応には問題があったなどと正論を主張すれば、つぶされてしまいかねない。こんな空
長期政権のもとで広がる「忖度」
むろん、多くの官僚が私欲を捨ててまじめに仕事をしていることは事実である。桜を見る会についても、複数の中央省庁幹部が、官庁に割り振られた招待者の推薦名簿については、「OBで叙勲などを受けた人を対象に厳格に選んでいる。恣意的に招待するなどということはありえない」と話してくれた。しかし、首相官邸主導の下で物事が決められていく中、官僚の行動様式に変化が生まれていることも事実である。
政界も同じである。政治資金をめぐる問題で辞任した菅原一秀前経済産業相や河井克行前法相とその妻の参院議員は、結局、国会開会中には姿を現さないままに終わった。彼らも何の説明もする気がないようだ。時間が経てばほとぼりが冷めるとでも思っているのであろう。
悪い冗談のような話だが、安倍首相は2018年4月、国家公務員合同初任研修の開講式で国家公務員になったばかりの若者を前に、「国民の信頼を得て負託に応えるべく、高い倫理観の下、細心の心持ちで仕事に臨んでほしい」と訓示している。首相が言うように私益を追求するのではなく、公益の実現が使命である公務員や国会議員に、倫理観は最低限、必要なものである。
ところが長期政権の下で、「首相に逆らうわけにはいかない」「いうことを聞いておけば守られる」という忖度の空気が広がれば、行政における恣意性が高まり、その結果、公平さ、公正さが損なわれ、不平等が生まれかねない。そうなると官僚機構のみならず統治システム全体に対する国民の不信感が拡大していく。そして、一度壊れた倫理観を修復することは容易ではない。
これ『「桜を見る会」問題が象徴する安倍政権の体質 「安倍一強」政権が政官界の倫理観を破壊する』と題した東洋経済オンラインの薬師寺克行東洋大学教授の2019/12/11 12:15の記事である。
戦後未曽有うの長期政権 戦後稀な成果一つ無く、「モリカケ」問題を始めとした「桜を見る会」問題までの数種の不祥事のみ。対外的にも恥ずかしい政権である。