日本学術会議が推薦した会員候補のうち6人の学者を任命しなかったことについて、菅義偉首相に対して批判の声が上がっている。学術会議の梶田隆章会長は、任命しなかった理由を明らかにすべきだとし、併せてその6人を速やかに任命すべきだと求めている。
これに対して菅首相は、任命しなかったのは「総合的、俯瞰的な活動を求める観点から判断をした」と説明するのるのだが、さっぱり分からない。
こうしたやりとりから見えてくるのは、政権側には説明責任に対する認識が欠落している、ないしは著しく乏しいということである。巷間(こうかん)、説明責任を果たしているかどうか問われることが多いが、それは自分がやったことを他者に対して説得的に説明できるかどうかに尽きる。説明できないことは、いくら丁寧に、また何度説明したとて無意味である。
つじつま合わせ
このたびの学術会議の任命問題であれば、推薦があったにもかかわらず任命しなかったことについて、学術会議の当事者はもとより国民の多くが「なるほど、そういうことなのか」と納得できる説明がなされるのであれば、政権は説明責任を果たしたことになる。
ところが、任命拒否の理由が「総合的、俯瞰的」では、関係者も国民も納得できるはずがない。政権はどうみても説明責任を果たしていない。
不思議に思うのは、政権は任命拒否したときに起きるであろう世論の反応を予想していなかったようだということである。予想していたなら、批判や反発には直ちに気の利いた説明がなされてしかるべきだからである。
首相の最初の説明は「法に基づいて適切に対応した」だった。マスコミや世間が「任命拒否は違法だ」と批判しているのだから、なぜ法に違反していないかの理屈を分かりやすく説かなければならないのに、木で鼻をくくったような「法に基づいている」ではなんの説明にもなっていない。
以後、「任命権は首相にある」のだから問題ないとしたが、そもそも政府はこれまで「推薦に基づいて会員を任命するもので、首相の任命権は形式的なもの」と説明してきたことと明らかに矛盾する。
「これまでの解釈を変更したのか」と問われれば、「いや変更していない」と答えるのだから、訳が分からない。
揚げ句の果てに首相は6人を除外する前の「推薦段階の名簿は見ていない」と言い出し、取り巻きを当惑させた。自分は見ていないのだか今責任を問われる筋合いはないと言いたかったのかもしれないが、「じやあ、誰が勝手に決めたのか」と統治能力を疑わせる事態に発展しかねない
これらから予想していないことを追及され面食らい、慌ててへ理屈をこね、つじつま合わせを試みるも、うまくいかなかった様子が見て取れる。
政権の体力消耗
一般に政府でも自治体でも企業でも、組織のトップは、説明責任の重要性を常に念頭に置く。企業の 社長であれば、自分が推し進めようとする戦略や方針について、株主総会でどう説明するか、株主、なかんずく物言う株主に納得してもらえるかなどということに、常に気をつけながら日々の経営に当たっている。
そんなことなどお構いなしで、行きあたりはったりの経営をしていると、株主総会で立ち往生させられたり、物言う株主などの大株主によって経営陣から外されてしまったりする。
そこで、本人だけでなく周りの部下たちも、社長の言動にはよほど注意を払う。「それはまずいですよ」 「株主にも従業員にも説明できません」と進言する。これに対し、もしまっとうな社長であれば、耳に逆らっても忠言を受け入れ、やり方を変えるか、どうしても説明がつかないならきっぱり諦める。
前の安倍政権に特徴的だったのは、説明責任に対しあまりに無頓着だったことだ。例の森友、加計問題も「桜を見る会」も、いずれも説明かつかないことをやってしまって、後で右往左往を繰り返し、政権の体力を著しく消耗させた。
菅政権はスタート間もないこの時期に、やはり安倍政権の特徴をそのまま引き継いでいることを露呈したようだ。これが日本学術会議問題を見ての感想である。
これ元鳥取県知事や民主党菅内閣で総務大臣を勤めた元自治官僚だった片山善博さんの「学術会議任命拒否問題 説明責任軽視、前政権を継承」と題したあるローカル紙に寄せたコラムである。
さすが民主的な考え方で常に市民国民の人気上位の人の記事である。普通のジャーナリストの記事と違い、媚びない忖度しないスッキリした記事である。行先の定まらないヤメ官連中とは違い、内部に詳しい経験を生かした記事である。
先日安倍政権の継承を謳い政権起立した菅義偉内閣ではあるが、安倍政権の負の遺産まで背負い込むつもりなのだろうか。もっとも安倍政権の実務を取り仕切って来た菅さんだからさもありなんと言う事か。安倍さんと違い短気な性格が随所に見られ、このまま行けば来年の安倍さんの残任期で終わる可能性大である。何かデフレ不況の後押しをしてる気がしてならず、当分は日本経済の停滞が気掛かりだ。