「脱原発」は正義か?

 私は身障者である。年に一度は入退院を繰り返している。私は脳出血だが、中には重症の筋ジフトロフィーの方も居る。この方々には呼吸不全の症状の方が結構いる。特に在宅ケアの場合には人工呼吸器が欠かせないし、当然それには電気が要る。緊急の場合はそれこそそのストレスは口では言えない苦しみである。だから私は短絡的に「脱原発」は反対だと言ってる訳では無い。
 
 私は今3.11の大震災以来、東電福島第一原発の事故の放射能漏れによる被害は口に出せないくらい憎いのは皆さんと同じである。今までの自民党の「原発マネー型推進政策」には絶対反対である事には変わりは無い。そして、菅首相の「脱原発」姿勢には正直不純な点もあるが大儀的には支持したい。
 現段階においては、世界大戦時の広島と長崎への原爆被害国としての悲惨さからの「脱原発」への流れ・姿勢には賛同する事すれ反対する謂れは無い。その流れの中で電力を融通し合い、そして節電し合う協力は当然とも思う。が私は前記したように常に電気を必要としている人々が全国に散在してるのも事実である。今「脱原発」に批判はタブーと思われるが敢て私は一言したためたいと思う。
 
 以前私はこのブログで紹介したが、原発申請時にリスク回避のため同時に同規模発電量の火力発電所も申請してると言う事も書いた。だからこそ原発止めても供給には差が無いのである。だから今までには電気を安定供給するためには原発は必要だったわけである。
 大震災以来私は京都大学小出裕章先生の「原発は危険」の趣旨は全て理解しているし、「機械はどんなに立派でもどんなに性能が良くてもいつかは壊れる」の主張にも感銘を受け涙した事も事実である。
 今日本は電気無しでは生きて行けないのである。それは事実である。そしてその産業にも従事する人間もいるのである。その人にも生活もある。
 今少しでも電気の供給が少なくなれば、それだけ経済も停滞する。さすればここ10数年来の財政の逼迫に輪をかける事にもなる。今は旧暦のお盆である。盆が明ければ製造業は事業を再開し電気の需要が倍増し、節電の要請は青天井になる。私は何もそれらを担保に取り恐喝してる訳でも無い。それらを総合的に考えた菅首相の「浜岡原発の中止要請」や「脱原発」だったのか問いたいのである。私は「即脱原発」では無く「minimum原発いづれは無くする)」姿勢の「脱原発」にするならと思った次第である。
 電気は今や経済・産業としっかりと結びついている。これが停滞すれば経済も停滞する。そして、産業は電気の隷属と言っても過言では無いのである。放射能被害による人間への影響は、人間の命の重さを量りにかけられない事も解かっている。
 
 同じ事を何度も書くようだが、私はこのブログに原発の恐ろしさと共に、原発の事故現場で働いている人への影響を批判した記事を載せた時に、実際現場で働いている東電の孫請け1人親方の電気事業者の奥さんから、コメントを貰った事を紹介した。初めての方もいらっしゃるだろうから、も一度紹介するが、東電は事故現場の直接作業員は全て下請けの電気業の方々であり、東電の直接の社員は最先端に行ってないのである。その作業員の方々は前記した1人親方の電気事業者の方々である。危険だからその奥さんご主人をその現場にやりたくない。でも子どもは小さいし、これからカネも掛かる。この作業に出れば1日数万円の日当になるのである。つまり子を育てるために、家族を守るためにそのご主人は、文字通り命を賭けて危険と解かっていながら働きに出るのである。これが電力業界に生きる者の現実なのである。私はこれらを総合して考えるに、「即脱原発」には反対であり前記した、「minimum原発いづれは無くする)」姿勢の「脱原発」を支持したい。
 何度でも言う、「即脱原発」は経済に与える影響大である。何とか「木を見て森を見ず」だけは避けたい気持ちである。
 
 
minimum→0への過程では勿論安全性は万全を期す。人間がやる事であるから100%の完全は無い。だから今後の原発再稼動の条件として、コンクリートの棺にすっぽりと収まるようにし、最悪、危険の非常時には、原発自体を水棺する。