豊臣秀吉の時代から迫害された朝鮮国(韓国と北朝鮮)は今もって日本国への不信、遺恨そして嫌悪感は取れないだろう またそれが軍事情報包括保護協定(GSOMIA(ジーソミア))の破棄だろう

 徴用工問題と対韓輸出規制強化で悪化が止まらない日韓関係。河野太郎外相が徴用工問題で駐日韓国大使を「無礼」と非難し、文在寅大統領は、日本の対応を「盗っ人たけだけしい」と批判した。だが、驚くにはあたらない。
 今年2月、慰安婦問題で天皇に謝罪を求めた韓国・文喜相国会議長の発言に対し、河野外相が「無礼」と批判し、文議長がやはり「盗っ人たけだけしい」と応戦したのと同じやりとりだ。
 
 日本人の多くは、韓国要人が、ことあるごとに日本の過去の侵略行為の罪を蒸し返すことに嫌気がさしている。今回の安倍政権による韓国のホワイト国除外についても、世論調査では概ね好意的な結果となった。
 
 だが、国内世論と違い、世界の目はそれほど日本に優しいわけではない。そう感じた出来事を紹介しよう。
 
 昨年米国のボストン美術館を訪れたときのことだ。戦争をテーマにした展示コーナーに、ヒトラームッソリーニと並んで昭和天皇の戦争責任を問うイラストが当たり前のように展示されていたのを見て驚いた。また、ニューヨークでタクシーに乗車したとき、アフリカから米国に来たばかりの移民の運転手に、「君たちは日本人だよな」といきなり話しかけられたときも驚いた。今や中国人や韓国人観光客のほうが日本人よりもはるかに多いのに、どうして日本人とわかったのかと聞いたら、「だって、呼び出し人としてスマホに表示された名前(そのタクシーを呼んだ知人の名前)に『HIRO』と入っていたから。HIROHITO裕仁)と同じ日本人だとすぐにわかるよ」と言うのだ。
 
 この二つのエピソードは、「日本人=天皇ファシズム」という連想がいかに浸透しやすいかを物語る。
 
 日本は戦後、憲法9条で不戦を誓った。それ以来、軍事行動で誰一人傷つけていないし、傷つけられてもいない。平成の天皇の長年のご努力もあり、日本の平和国家のブランドが確立したが、それとともに過去の戦争責任が国内で議論されることも少なくなった。
 
 一方、国際社会では、過去の日本のイメージが今も根強く残る。韓国の要人たちは、それを知ったうえで、「誰が悪人なのか」ということを国際世論に訴えているのだ。太平洋戦争では、日本が加害者で韓国は被害者。慰安婦も徴用工も、日本が犯した罪だというのが世界の常識だ。そのことを日本が否定し始めたという韓国政府の宣伝は、非常にわかりやすい。
 
 私が危惧するのは、過去の戦争責任を忘却しきったような今の日本のムードが、世界の人々との間に溝を生むのではないかということだ。韓国に対して「無礼」と日本が反発すればするほど、世界からは「日本は過去に目を閉ざそうとしているのでは?」と見られる。安倍総理の「未来志向」という言葉も、「未来志向なんだから、過去のことはもう蒸し返すな」という意味にしか聞こえなくなるのだ。
 
 815日は日本の終戦記念日だが、韓国では、日本の不当な植民地支配から解放された記念日「光復節」である。日本は太平洋戦争の罪を認めて謝罪しているが、日韓併合自体については、合法であったと今も主張している。この点がクローズアップされたら、安倍総理はどういう態度を取るのだろうか。
 
 15日は過ぎたが、韓国の非を責める前に、過去に目を閉ざしていないか、もう一度、謙虚に自省した日本人がどれだけいたのか。それがとても気にかかる。
 
週刊朝日  2019830日号
 
 
これ『古賀茂明「過去の戦争責任を忘却しきった日本」〈週刊朝日〉』と題したAERAdot8/20() 7:00の配信記事である。
 
 
第二次世界大戦は戦争と言う名の人間の殺し合いである。「言った者は忘れるが、言われたものは決して忘れない」の例え通り、戦争に置き換えて見れば、戦国時代の豊臣秀吉の侵攻以来屈辱を受けて来た朝鮮(韓国と北朝鮮)はその例え通り決して日本国の遺恨は忘れていないだろう。結論的には朝鮮(韓国と北朝鮮)は日本国に対しては不信、遺恨そして嫌悪感が先に立つだろうと思う。政治的経済的などんな取り決めを行おうとも、心にあるは嫌悪感だろう。私は韓国の文在寅大統領は史上最低の大統領と批判して来たが、根底にある朝鮮人の日本への感覚を忘れていた。正に上記古賀茂明さんの記事を見て赤面の至りを覚えた。やはり我々日本人は戦争体験者の生の話を聞くまでもなく、いくら殺し合いでも、非人道的な行為を是認する事は恥じなければならない事と心に留め置く事は忘れてはいけない事であった。
我々団塊の世代のガキの頃、在日朝鮮人を迫害した現場を目撃した記憶のある人間は、同じ人間でも日本人とは違う人種と言う教えに似た間違った感覚を知らずに、大きくなった時代は決して忘れられないし、恥ずべき行為と自心を戒めなくてはならないと思っている。