この長期政権の安倍政治をブルーインパルスに例えて的確に表現した平川エリさんと言うブロガーの記事を紹介する

ブルーインパルスが飛んだ日
飛行機はいいものだ。飛行機は乗るのも見るのも好きだ。関空のデッキ、セントレアの展望風呂、羽田のカフェ。空港について離着陸を見ながらゆっくり時間を過ごすのは楽しい。
ブルーインパルスもいいものである。大空に舞うT-4(ブルーインパルスで使用されている航空機)は素晴らしい。T-4が飛ぶ東京の空を多くの人が一斉に見上げるのは、とても美しい体験である。
5月29日、ブルーインパルスが飛ぶ空を見てしみじみと思ったことがある。人は祝祭を前には批判の力を削がれる。どんなに普段政権批判している人でも、この光景には心動かされるだろう。
東京オリンピックは、ひとまず延期になったが(開催できるかすら、よくわからないが)、もし今頃開催されていたら、開催までに一体いくらお金が投入されたのかとか、新国立の建設の裏で亡くなった方がいたとか、そういう問題はほとんど忘れさられてしまっただろう。
アスリートの熱量や観客の熱狂の前に、批判は無力だ。細かい議論など、吹き飛んでしまう。
非日常な臨場感というのは、あらゆる論理を飛び越えて、人の心を動かしてしまうのだ。

論理性の喪失と、お祭り政治
本稿で述べるのは、ブルーインパルスを飛ばしたことそのものの是非ではない。この件を「医療従事者への感謝のため」とした政府の説明についてだ。
と言うと、「お前は医療従事者に感謝しないのか」という批判が来るだろうが、そういう話ではない。そこにどのような論理が存在するのか? という問題である。
純粋に論理的に考えて、まず「ブルーインパルスを飛ばすこと」が「医療従事者への『支援』」にはつながらないことは自明だ。
「医療従事者への補償をすることで医療従事者への感謝の気持ちを示す」とか「ブルーインパルスを飛ばすことでパイロットの技術の高さを示す」なら、論理はつながる。
しかし、「ブルーインパルスを飛ばすこと」と「医療従事者への感謝を示すこと」の間には強い論理的なつながりがあるとは言えない。
「医療従事者への感謝」という枕詞で飛んでくれれば、「ああ、感謝してくれているのだろうな」と思って元気が湧いてくる医療従事者の方もいらっしゃるだろう。
そういった声も多数、Twitterなどで見られた。だから、「意味がない」とは言っていない。ここで言いたいのは、論理的に強いつながりがない、ということだ。
これは、「復興」についても同じことが言える。
震災から9年、「復興」という言葉はあらゆるイベントの形容詞として使われてきた。東北から遠く離れた東京で、震災から9年後に開かれる(はずだった)オリンピックすら「復興五輪」であるように。
強引なこじつけ、そして論理の飛躍――それが許されるのは、ブルーインパルスにせよ、オリンピックにせよ、それが祝祭であり、日常から切り離されているからだ。つまりそこには「連続性」がない。
被災地の復興や医療関係者への支援・感謝といった営みが実効的なものとなるためには、日々の小さな積み重ねこそが重要となる。その意味での毎日途切れることのない「連続性」が不可欠である。
しかし、ブルーインパルスやオリンピックといった「祝祭」は違う。それらには、被災地との関係や医療従事者との関係においては、過去も未来もない。ある一瞬、あぶくのような高揚が顔を覗かせるだけだ。連続性がない一瞬の祝祭だから、その行為がなぜ「感謝」になるのか「復興」になるのか、誰も責任を持ってきちんとした論理を考えない。
だから「医療従事者への感謝を」でも、「配送業者に感謝」でも、「緊急事態宣言が開けたお祝い」でも、「#太郎見てくれ」でも、成り立ってしまう。
しかし、よくよく思い出してほしい。「復興五輪」と銘打たれて進められていたはずの東京オリンピックは、いつの間にか「人類が感染症に打ち勝ったことの象徴(意味不明だが)」になっている。復興はどこに行ったのか。復興はそんなに軽いものなのか?

お祭りと政治
パレードやお祭りというのは、日常から離れているからこそ、祝祭的な意味を持ちうる。
もちろん、祝祭そのものは大きな価値を持つことも多いだろう。しかし問題は、政策のなか、そして政策を取り巻く文脈のなかに祝祭が入り込んでくることだ。日々の政策というのは、お祭りから離れて評価されるべきである。我々の日常は、先に述べたような「連続性」のなかに存在し、政策とはそうした日常や生活と深く関わっているからだ。
安倍政権の問題点は、政策そのものが「お祭り」的であることだ。
安倍首相が打ち上げる花火は常に大きく、常に仰々しい枕詞が付く。そして、なぜそれが必要なのか、論理的に考えれば意味不明なことも多い。
アベノミクスの三本の矢」から始まり「デフレ脱却」「新三本の矢」「一億総活躍」「GDP600兆円」「国難突破」「地方創生」「人づくり革命」「非正規という言葉をなくす」「空前絶後」……。
働き方改革」のように定着したものもあるが、皆さんはいくつ覚えているだろうか。
これらの仰々しい言葉は、突然パッと花火のように打ち上がり、何の検証もされずに消えていく。検証しようと思ったときには、次の花火が打ち上がっているからだ。前の政策が成功したのか失敗したのかも定かではない。
「一億総活躍」を批判することは不可能だ。それは、あらゆる日常の物事にとっかかりを持たない、純粋なるスローガンであり、だからこそ、論理的に批判することもできない。「すべての人が活躍する社会」に反対する人などいないからだ。
民主党政権の「子ども手当」は具体的であったがゆえに批判されたが、「コンクリートから人へ」は(表立っては)批判されなかった。
しかし、具体性を欠いた政策を打ち上げ、ろくに検証もせずに矢継ぎ早に繰り出すことに、一体何の意味があるだろう? 具体的であるからこそ、我々は政府を監視でき、健全な民主国家が実現できるのではないか。
我々の日々の生活はお祭りではない。残念ながらスローガンで腹は膨れないし、問題は解決しない。

フェスティバリズム(お祭り主義)
国会答弁は拒み、委員会は開かない。政策は打ち上げ花火で、検証させないように矢継ぎ早に新しいスローガンを繰り出す。
情報はできるだけ出さない。議事録も公開しない。
国会が閉じれば外遊に精を出す。芸能人とは積極的に会う。
安倍首相は、論理という日常と地続きのフィールドでの戦いを徹底的に避ける。それは安倍政権における一つの戦い方のスタイルであった。このスタイルを作り上げることで、長年批判をかわし、政権を維持し続けてきた。
このような安倍内閣の姿勢はポピュリズムというよりも、古代ローマの風刺詩人、ユウェナリスが語るところの「パンとサーカス」につながる、フェスティバリズム(お祭り主義)と読んだほうが適切ではないだろうか。
布マスクとは何だったか
と考えれば、布マスクが政権の支持率に大きく影響した理由はわかるだろう。それは、初めて目に見える形で、誰もが「手触りの有る形で」明らかになった、政権の失敗だからだ。
そもそも、布マスクとはなんだったのだろうか。布マスクそのものが有用であるか、の議論は一旦脇に置こう。しかし、緊急事態宣言が解除された今もとどかない上、400億円もの巨費を投じた「マスク配布」自体が失敗であったことは、もはや安倍政権の支持者からも自明なはずだ。
週刊文春の報道によれば、このマスク配布を手動した官僚は「国民の不安はパッと消えます」と主張されていたという。
しかし、マスクはあらゆる意味で「お祭り」ではない。マスクが配られたからと言って不安がぱっと消えるなどというのは、妄言である。むしろ、マスクは「日常」の象徴といってもいい。
コロナ禍にあって日々身につける必要があり、しかしなかなか手に入らなかったマスク、それを調達し、国民に提供することは、先述の意味での「連続性」を強くおびていた。
「GDP600兆円」が失敗したことはみんな忘れても、物価目標2%を達成できなければやめる、と啖呵を切った人が辞めなくても、マスクの縫製が甘いことは忘れない。ごくごく身近なところにやってきたそれを使うか使わないかは、結局のところ個々人が決めざるを得ず、個々人が政策に深く関わるからである。
残念ながら、全国民にマスクが配られないままに緊急事態宣言は解除されてしまい、街で布マスクをつけている人はほとんど見ない。一人安倍首相だけがマスクを付けているのは、批判をかわすためであろうが、どこか滑稽である。
マスクを喜ぶツイートもある。その中には「神棚に飾る」という発言もあった。なぜ「神棚」なのだろうか。私見では、地に足のついた日常生活の尺度の中で、手触りある存在としてマスクを評価すると、どうしても批判せざるを得ず、だから、国からの「恩寵」や「お守り」として、日常から切り離したところに置くしかできないのではないか。こうした構造があるのではないか、と推察する。

空前絶後の経済対策の前に
コロナ禍の終わらない日常の中、「空前絶後」「世界最大の」経済対策という仰々しい言葉は、どの程度人々に届くのだろう。疑問に思う。
やはり政治の初心に立ち返るしかないのではないか。「パンとサーカス」という言葉におおては「パン」もポピュリズムのための具材と位置づけられていたが、現代においては少々状況が変わっているだろう。国民の目をくらますための「サーカス」ではなく、生活のための「パン」を配ること……つまり、しっかりとした補償を行うしか、政権浮揚の道はないのではないか。
祝祭は必要である。人はパンのみにて生くるにあらず、という言葉もある。しかし、パンがない時にサーカスを見たところで、楽しめるはずもない。
だから、世界最大でも空前絶後でなくてもいい。必要なのは、みんなの腹を満たすだけの、パンが必要だ。


これ『安倍政権、「日常の政策」を軽視し「お祭り政治」に明け暮れた7年のツケ ブルーインパルスが明らかにしたこと』と題した『「読む国会」主宰者平川エリさんと言うブロガー』の現代ビジネス2020年6月7日 6時0分の記事である。


アンチ安倍政治の拙ブログで表現出来なかった事をこの記事を紹介する事で表現したいと思って紹介した。