30年前の自分の息子を思い出させてくれた藤井聡太四段(14)に感謝!

 将棋の史上最年少棋士で中学3年生の藤井聡太四段(14)が6日、大阪市福島区関西将棋会館で指された第76期順位戦C級2組2回戦で、後手の中田功七段(49)に127手で勝ち、通算30勝目を記録した。2日に佐々木勇気五段(22)に敗れ、昨年12月のデビューからの歴代最多連勝記録が「29」でストップして以来の対局。中田七段の攻めに苦しめられたが、終盤の“聡太マジック”で大逆転を決め、伝説第2章をスタートさせた。
 連勝は止まっても、強さを増す勢いに変わりはなかった。仕切り直しの一戦。佐藤天彦名人(29)の師匠でもある古豪・中田七段は「プロでも私しかやらない、こだわりの戦法」と自信を持つ「三間飛車」(7筋に飛車を振る)で藤井四段に大きく立ちはだかった。
 これに対し、自玉を左隅に囲む「穴熊」で対抗。穴熊攻略にもたけた中田七段の懐に飛び込んだが「前回負けてしまっているので、以前よりは若干、勝敗にこだわる感じにはなった」。厳しい戦いに自ら踏み込み、中盤までは苦戦を強いられたが、持ち前の終盤力で一気に形勢逆転。「途中はちょっと苦しくしてしまったんですが、こっちの勝負手が結果的に奏功したのかな」。中田七段は「端攻めを藤井さんに見事に切り替えされた」と、うなるしかなかった。
 連勝が途絶えてもなお、15社約40人の報道陣が詰めかけた。プロ初の敗戦から4日。「ずっと引きずっていてもいいことはない。なるべく切り替えて、と思っていました」。おなじみのライトブルーのリュックサックは、この日は黒の別の物に。「気分転換?」の問いには「別に…。大きさの問題で、特には」と、はにかんで表情を崩した。
 順位戦は持ち時間6時間の持久戦。午前10時の開始から12時間を超える長丁場だった。2回入る食事休憩で注文した“勝負メシ”は、昼食はカレーうどん定食(830円)。夕食に選んだのは親子丼(730円)だった。満腹になったためか、午後9時ごろには眠気を覚ますように両手を上げて伸びをしたり、ハンカチで口元を隠してあくびをかみ殺すような場面もあり、中学生らしさをのぞかせた。
 順位戦は将棋界最高峰「名人」へと続くリーグ戦。藤井四段の「C級2組」は50人の棋士がおり、1年間のリーグ戦で10局指し、上位3人に入れば「C級1組」に昇級できる。藤井四段は先月15日に瀬川晶司五段(47)に勝っており、これで無傷の2勝目。藤井四段はデビューしたてのため同組の45位で「下位なので不利。昇級には最低9勝は必要だろう」と関係者。挑戦権獲得にも最低5年かかる。今月19日に15歳の誕生日を迎える“神の子”は、名人へと続く長い階段を、また一つ上った。
 
 
これ『藤井四段“聡太マジック”で大逆転!終盤「奏功」勝負の一手で通算30勝』と題したスポーツ報知7750分の報道である。
 
 
この藤井聡太君には及びべくも無いが、我が息子も30年前県大会で涙を呑んだ事があった。今息子は40に近くなったが、藤井聡太君の中盤の盤面見て、どちらが優勢かは解かるみたいである。私にはどちらが勝っているかは全然解らない(笑い)
私ともう亡くなって居ない親父はかなり将棋が好きで、いつも親子で暇を見つけてはやっていた。でも他人に言わせればヘボそのものだった。私に飽きたらず親父は暇つぶしに私の息子に目をつけた。我が息子当時は確か小学2,3年生くらいだったと記憶している。毎日教えていたが、ある日から親父は自分の孫にてんでかなわなくなってしまった。お前やってみろと言われ、私も息子と指してみたが、最初のあたりはそれなりに戦えたが、そのうちには僅か数分で私は相手にならなかった。喜んだ親父はどんどんエスカレートし、強い奴は道具もいい物でないとと言っては、山形県天童市に何度か連れて行っては、将棋盤や駒を高価ながらも買い与えてた。息子はどんどん上達しある県大会まで上位に食い込んだ。当時確かもう小学6年生にはなっていたと思う。いわゆる県の小学名人戦と言う事だった。場所は県庁所在地のテレビ局でだった。順調に勝ち進み、ベスト4にまで行った。決勝戦はテレビ対極になり、テレビに映るのである。ところがプレッシャーだったのかやはり相手が強かったのだろう、決勝には行けなかった。準決勝で涙を呑んだのである。噂を聞いた(恐らく親父が触れ込んだのだろう)近所の人たちが応援のためテレビの前に集まった。だが決勝に行けなかったため当然にテレビには映らず、負かされた相手の実況中継を見て散会した。今は懐かしい思い出だが、今でも息子の師匠(アマ5段)に会えば、あの時あの後に私によこせばと何度も言われてる。
この聡太君の記事を見るたびに、この事が思い起こされる、最近の毎日である。