安倍首相があえて「参院選で信を問う」のであれば我々国民=選挙民は粛々とそれを否決するしかないし、それが我々国民=選挙民の使命とは言えまいか

 安倍晋三首相は1日の記者会見であえて「参院選で信を問う」との表現を使った。国政で「信を問う」とは、一般的に「内閣への信任をかけて有権者に問う」(竹中治堅・政策研究大学院大教授)との意味だ。政権選択選挙に位置づける衆院解散・総選挙に臨む際に用い、参院選にはあまり使わない。
 首相は記者会見の中で「審判を受ける」とも言ったが、「信を問う」との言葉を使用した理由を時間をさいて説明。「この選挙でしっかりと過半数という国民の信任を得たい」と述べた。獲得議席目標は「信を問うと申し上げなければ参院全体で(非改選を含め)与党過半数だ」と指摘。「今回はそうではない。信を問いたいから改選議席の与党過半数」と語った。
 参院衆院とは違い、3年に1回、半数しか改選しない。解散があり、全議員を改選する衆院選に比べると「政権の中間評価の意味合いが強い」との声もある。
 首相は201411月の消費増税延期の際に衆院解散したが、今回は見送った。解散も「頭の中をよぎった」が、熊本地震などを考慮した。参院選で与党過半数を改選議席のみで達成すると訴えたのは、衆院選並みの重い審判を得たいとの思いがありそうだ。一方で目標に達しなければ政治責任を問われるリスクを負ったともいえる。
 
 
これ『首相、あえて「参院選で信を問う」 衆院選並みの重み強調』と題した日本経済新聞電子版6月2日1:37の報道記事である。
 
 

 安倍さんは「あえて」と言う言葉を使った。「あえて」とは大辞林第三版の解説を使えば『(しなくてもよいことを)困難や抵抗を押して意図的に行うさま。わざわざ。無理に。-危険をおかす」-苦言を呈する」』と言う事になり衆議院を解散出来なかった悔しさが滲む。現実的には正解だったが、史上の先人に対しての権力者としてのライバル意識も見え隠れする。第一次政権時の失敗を取り返えそうとの思惑も滲み出ていた。が菅官房らの現実論(衆議院を解散すれば確実に現議席は維持出来ない)にしぶしぶ従った謂れは、今後の憲法改正が頭をかすめたのが因であろうと理解する。これで闘いの火ぶたは切って落とされた。あとは結果を待つのみではあるが、与党の思惑は少々甘い。少なくとも国民は憲法改正には未だ納得の感薄い。何故ならその手法としては、国民の代議員である国会議員の3分の2が賛成との条件を確保するのが先決だが、国会にて決議には国会に出席の3分の2では無く、全議員の3分の2が賛成でなければならないため、如何にそれが大変な事か安倍さん解っているのか。現実には自民の議員でさえクルスの踏み絵を嫌う議員が結構居る事を考えれば第二ハードルの国民投票にさえ行けるかどうかも解らないからである。自分の母方(岸信介の娘=洋子)の親父(岸信介)の理想ばかり追い、父方(安倍晋太郎)の親父(安倍寛)のどちらかと言えば三木赳夫ばりのリベラル的思考を排除した生まれながらのマザーコンプレックスの独りよがりの勝手思考に我日本が自由にされてはたまらない。だとするなら我々国民=選挙民は粛々とそれを否決するしかないのが我々国民の使命と言えまいか。