子の事で黄昏のみのもんた氏グチの前に頭が悪かったか?

先日、テレビ朝日の『橋下×羽鳥の新番組(仮)』に出演したみのもんた氏が、次男が窃盗未遂で逮捕された際(泥酔し路上で寝ていた40代会社員のカバンに入っていたキャッシュカードを盗み、コンビニのATMで現金を引き出そうとして逮捕。2013年)、息子の不祥事なのに、マスコミは当事者ではなく親の自分を叩きすぎではないか――、と訴えた。
 
 「倅が財布を拾った拾わない、キャッシュカードを自分のじゃないかと思って探して、探して無い。それから端を発して、“本当に、お前、いまやったカードはお前のじゃないのか”“いや、落ちてたんで、ぼくは探してたんですよ”“本当に財布、落としたのか落とさないのか”、そこに“この財布お前のか”って届けてくれた。“ああ、じゃあ、お前、本当に財布探してたんだな”と帰された。
 
それから一週間後ですから。“お前の親父の名前はみのもんたか”って訊かれて、そうですって。その場から拘留ですよ。やっぱり不自然なものを感じましたね」(番組での発言より)
 
みの節にしては歯切れが悪いというか奥歯に物の挟まったような言い方だが、みのさんは訴えるのである。次男は“みのもんたの息子”だったからあれほどの騒ぎになった、自分が普通のサラリーマンだったらあんな騒動にはならなかっただろう。家族とはいえ30歳を過ぎ、社会人になって家族まである息子の不祥事なのに、父親まで一緒に叩かれるのはおかしいと。そして、だったらどこまでが親の責任なのか、論争してくれよとも言う。
 
責任の所在という発言を聞いて、おや、とちょっと気になったのである。
 
著名人の子どもが不祥事を起こすとメディアが親に説明を求めるのは、振り込み詐欺に通ずるものがあると指摘するのは大澤孝征弁護士だ。
 
〈これだけ注意を呼びかけてもいまだに「振り込め詐欺」の被害が後を絶たないのは“我が子の不祥事は表沙汰にしたくない、できれば内々に済ませたい”という日本の親らしい心情を巧みに利用しているからです。(中略)
 
日本にはそういう心情があるから、著名人の子が罪を犯せば、マスメディアは当然のように親の謝罪を求めます。そこでお詫びしなかったり、態度が悪かったりするとたちまちバッシングの嵐です。(中略)法的に責任はないにしても、我が子が罪を犯せば、世間さまに謝罪するのは親の務め、という意識は根強く残っているのです〉
 
みのさんの訴えどおり、親に責任を問うのは明らかに筋違いだと言うのは元日本テレビディレクターで上智大学教授の水島宏明氏だ。
 
〈日本という国は何かあれば“親の顔が見たい”という島国根性から抜け出せないでいる。逮捕されてコメントを取れない本人に代わって、親に“申し訳ない”と謝らせないと気がすまない。凶悪な殺人事件が起きれば、いわば“みせしめ”のように、容疑者の実家の前から記者やレポーターが中継する。
 
でも、個人主義が確立されている欧米で、親の責任を攻めるような取材、報道は見たことがない。日本だけの、とっても“前時代的な報道”なのだと気がついてほしい。見渡せば、犯罪容疑者の家族に対する人権侵害と言えるような報道も、いまもなお後を絶たない〉
 
水島センセイは前時代的と言うが、欧米に比べ、日本には先祖代々からの土地を受け継ぐ、墓を守る、親の介護をするといった風土や慣習がいまも残されている。血筋や血縁を大事にし、家長を重んじる封建社会を育んできた民族でもあるから、親と子の結びつきは強い。だから、メディアは親の責任を問うのである。
 
また、みのもんたクラスになれば、テレビでの発言とその影響力は果てしなく大きなものになる。橋下徹氏は、ある意味、みのさんの発言は大臣より影響力があると番組で言っていた。次男逮捕の翌年、みのさんは、雑誌の取材にこう応えている。
 
 「稼ぎすぎと言われたぼくですが、ゴールデン番組のギャラが一回につき数百万円とすれば、月4回でいくらになると思いますか?それが6本あるわけです。帯番組のギャラだってたいへんな金額です。一回数百万円が週5回、それが朝と昼にあったわけですから。
 
毎月、朝と昼の帯番組とゴールデン、それぞれのギャラを合算すれば億単位のおカネになりました。そしてCM。これも契約金は億単位です。たしかに大金ですが、どれも一生懸命に働いた対価ですから、もらいすぎはよくないとは思っていませんでした」(週刊現代201496日号)
 
億を超える月収を得てももらいすぎだとは思っていないと言って憚らないみのさんに、視聴者や雑誌の読者が関心を持たないわけがない。鎌倉に2500坪もの土地を所有し、総額17億とも言われる豪邸を建てたと聞けば、誰もが羨み、いったいどんな豪邸なのか見てみたくなるのが人情というものだ。2500坪って8,250平方メートルですよ。
 
ましてや、その息子が事件を起こし逮捕されたとなれば、待ってましたとばかりにマスコミはみの邸に押しかける。水島センセイはそれを言うのだ。
 
〈ニュースなのに、それを伝える側のゲスな根性が見え隠れしている。もちろん「報道機関で働く人間は、一般の人たちと違ってより高度な倫理を求められるから、小さな犯罪でもニュースにするのだ」という言い方はあるだろう。(中略)
 
そうしたニュースはたぶん一般視聴者や読者の溜飲を下げる面もあるに違いない。底にうずまくのは“おまえら、高い給料もらいやがって、チャラチャラしやがって、ざまあみろ!”という感情だ。それはテレビや新聞などの真っ当なジャーナリズムがやるべきことなのか〉
 
そして、ゴシップならば週刊誌に任せておけばいいと水島センセイは言う。週刊誌の記者や編集者はきっと“あざーっす”と言って喜ぶだろう。取材現場でのテレビクルー(特にワイドショー)とブン屋さんたちの邪魔なことったら。
 
しかし、大豪邸に住むみのさんが頭を下げれば、ざまあみろ、と思う人もいるのだろう。
 
 「次男の不祥事は事実だし、親としての責任も当然ある。でも、最初のうちは“30歳を過ぎて所帯を構えている息子のことなのだから、番組降板の必要まではないのではないか”と思っていました。ただ、世の中はそうではありませんでした。謝罪会見だけでは済まなかった。(中略)
 
ぼく自身がやましいことをしたわけではない。ただ“みのもんたの息子”ということがこれほどのニュースになる。自分の社会的責任を思い知るのと同時に“ここまで叩かれなきゃいけないのか”“これも日本の風潮なのか”とは思いました。(中略)
 
“稼ぎすぎ”あるいは“家が大きすぎる”といった報道もあり、“そこをとやかく言われる筋合いはないなあ……”と思ったこともあります」(週刊現代201496日号)
 
あの騒動でみのさんは日本テレビ『秘密のケンミンSHOW』と文化放送のラジオ以外の全ての番組を降板した。次男氏は不起訴処分となったものの、勤務していた日本テレビを諭旨解雇された(現在はみの氏の会社ニッコクの社員)。
 
番組に出演したみのさんは、騒動の際、どこまでが親の責任なのか論争してくれと思っていたと言った。司会の羽鳥慎一アナは、それを言う場はなかったのかと訊く。
 
みのさんは、なかったと応えた。あのときちょうど夏休みを取っていたからと。
 
それで私は、あれれと思ったのである。次男逮捕の報が出てすぐ、毎日のように多くの報道陣がみの邸に押しかけた。みのさん本人も取材陣の前に姿を表し、質疑応答に応えていたりもする。事件の2ヵ月後には謝罪会見も開いた。どこまでが親の責任なのか論争してくれ、と言う機会はいくらでもあったのだ。それを、言う場がなかったとは……。
 
 「ぼくは、親の責任は全くないと思ってますから。だって、独立して社会人で、それで親の責任がどうのこうのって」
 
番組ではこう言っていたが、3年前の謝罪会見でみのさんは全く逆のことを言っていた。3年前の1026日、みのさんはこう言ってうな垂れたのだ。
 
「(前略)私の気持ちの中に、何でこんなことが起きたのか、なかなか整理がつきませんでした。30過ぎた、家庭を持った、仕事を持った、社会人である我が子、何でという気持ちがたいへん強うございました。しかし2週間、3週間、4週間と経つうちに、私の気持ちの中に、少しずつではありますが、思いの変化が出て参りました。(中略)
 
女房と、懸命に育ててきて、社会に送り出したはずなのに、何かが狂ってたと、どこかがおかしかったと、そんな思いが強くなりました。
 
たしかに、あの子は私の子です。しかし、成人して大人になって社会人になったはずなのに、家庭を持ったはずなのに、こんなことをしでかす。どこかが子育ての中で、何か間違っていたんじゃないのかな、不完全なかたちで世の中に送り出してしまったのか……、だとしたら、父親としての責任があるなと思い至りました。
 
親子の縁は切れない。間違いなく我が子だ、どこかが狂って社会に送り出しても、その責任は父親である私にあります、申し訳ありません。
 
親としての責任を感じたとき、私はどうやって、その親の責任を取るべきかと必死に考えました。(中略)いちばん私にとって苦しい、喋るという世界、報道の番組から降りるということが、私にとっていちばん苦しくてきつい判断でした。でも、道義的にも父親としての責任を感じたならば、私も、自分にとっていちばんつらい道を選ぼうと思いました。(中略)
 
正直に申し上げます。道義的な親の責任を私は非常に感じました。と同時に、道義的な責任を感じて親はどういう責任を取るべきなのか、答えは、自分にとっていちばん苦しい道を選んでみようと思いました。(後略)」
 
番組で、親の責任は全くないと言っていたみのさんは、3年前、責任は父親である私にありますと言って頭を垂れた。3年経って翻意したのか。だとすれば、あのときの涙は何だったのか。あのとき、私はちょっと感動していたのだけど。
 
私は、加害者の親にも、被害者の遺族にも取材を試みるタイプの記者だ。だが、呼び鈴を鳴らし、玄関口に出て来た加害者の親の憔悴を見れば、それだけで辞することも少なくない。庭先を覗き込んで、真っ昼間なのにカーテンを閉め切り、息をひそめて暮らす家族を様子を察したら、もう十分のように思ったりもする。
 
ガーデニングが趣味らしいのに、庭の草木がすっかり枯れていたら、加害者の家族がどんな状況に追い込まれているか、わかりそうなものではないか。
 
どこまでが親の責任なのかは、その人を取材者がどれだけ糾弾するか、しようとしているかに等しいのだ。
 
 
これ『みのもんた氏が問う「子の不祥事と親の責任」の3年前と今』と題した[ノンフィクションライター]降旗 学氏のダイヤモンドオンライン423日の記事である。
 
 
この記事私は不思議に思う気持ちで読んだ。だって今までのみのもんたは親子の問題だけではなく世の全ての事柄あるいは事例に対し本当に素晴らしい模範的な解答を言ってた人物である。それが我が子になれば全然違う考え方になるのかと言う事である。何か私には死刑廃止を叫んでた人物が、我が子を殺された時にその犯人を、死刑にしてと言ってるようなものである。そしてみのもんたは一つ忘れている事がある。それは日本古来の、「子は親の背中を見て育つ」と言う諺である。確かに彼は高給取りである。それは彼の努力の結果であろうが、この親にしてこの子有りである。その高給取りの親にして、子と共に毎夜銀座の高級店で、コニャックのバレンタイン30年を空ける暮らし振りだったとか。ナルホド
ただ頭は余り良くなかったのではと思う。だって豪華邸宅、稼ぎの象徴だろうが、固定資産税毎年6千万円かかる事、身分保障のない芸能人、キャッシュフロー解らなかっただろうナ。