民間企業にも蔓延してきたお役所的プロセス至上主義 役所嫌いが一層嫌いになった例

 お役所仕事的なプロセス至上主義が、国や公共機関から、企業の人事部門にも伝播している。サービス提供という本来の目的意識が希薄となり、制度や手順の運用・徹底のみにエネルギーが費やされる、いわば制度疲労だ。解決のためには、国において選挙を行うがごとく、人事部門においても人の入れ替えをするしかない。
 
■「郵送でしかお渡しできません!」 健康保険組合の徹底した“お役所仕事”
 「取りに来ていただいても、郵送でしかお渡しできません」、「従って、一両日でお渡しすることはできません」、「受け取るまで、1週間は、みてください」――。これは、自社が加入している健康保険組合組織に、自社の社員数十名の被保険者名簿を出力していただきたいとリクエストした際に受けた、回答である。
 理由を問うと、立て板に水の如く、次々とできない理由が示された。
 「個人情報なので、厳格に取り扱っている」、「全国の事業者を平等に扱うために、近隣のみ優遇することはできない」、「事務フローが決められており、逸脱できない」、「特定企業のみ特別扱いすることは、公的組織として許されない」、「郵送することは、私の仕事ではない」。
 ひとつひとつ、理解を示しながら、しかし電話では埒が明かないと思い、必要となるであろう書類を用意して、事務所へお伺いして、あらためて丁重にお願いした。金曜日の午後のことである。
 急いでいたため、私はやすやすと引き下がるわけにはいかなかった。「個人情報を厳格に取り扱うことは極めて重要であると理解している。会社代表者ならびに人事責任者の印鑑を申請書に押印し、法人登記簿、印鑑証明、人事責任者である本人写真付確認書類を持参したので、持ち帰らせていただけないか」と相談してみたが、「郵送で授受するという規則を逸脱することはできません」という回答であった。
 あれこれ説得してみたもの、のれんに腕押し。途方にくれていると、ようやく、「申請書類の受理だけはしましょう。しかし、送付は、郵送でさせていただきます」とのこと。「では、速達料金を支払わせていただくので、速達で郵送していただきたい」旨を伝えると、「そのような前例はないので、できない」の一点張り。
 押し問答の末、「夕刻の窓口閉鎖の時間になりましたので、閉めさせていただきます」とのこと。「従って、お引き取りください」という先方の声が届いたように思い、脱力感に耐え切れぬ思いで、しばし呆然としていた。すると、担当者が再び近づいてきた。追い払われるかと身構えると、「上と協議した結果、郵送不能の預かり扱いで、特別に手渡しするので、月曜の朝、取りに来てください」と、小さな声でおっしゃった。
 
■お役所仕事に反発するビジネス部門「仕方がない」と主張する人事部門
 この例は一例であり、全ての健康保険組合がこのような状況だと言っているわけではない。これまで加入していた健康保険組合の中には、極めて迅速に一両日で加入者名簿を発行する組合もある。今回は、事務手順の例外処理を認めようとしない、認めることへの裁量の余地がないプロセス至上主義がはびこっている実態に直面した出来事であった。
 この出来事の話をすると、ビジネス部門の方々からは、「お役所仕事の象徴のような話ですね」、「利用者にサービス提供するという発想がありませんね」というリアクションがある。
 一方で、同じ話をした人事部門の方々からは、「事務手順は組合が決めるべきものなので、1週間程度余裕をもって依頼しなかったことがまずかったですね」、「例外処理は決してさせるべきではなかったですね」というリアクションが返ってきた。いわゆるお役所仕事的プロセス至上主義が、健康保険組合にも、そして、人事部にも伝播していると言わざるを得ない。
 この事例のように、「事務フローを逸脱できない」、「特別扱いすることは許されない」、「前例がない」という発言が出てきたら、そして「これは、私の仕事ではありません」、「ここまでで、私の仕事は終わっています(あとは知りません)」というリアクションが出てきたら、それは、お役所仕事的プロセス至上主義の兆しである。
 健康保険組合も、人事部門も、利用者への健康保険サービスや、人事サービスを提供することを目的とした組織である。つまり、顧客は、利用者である被保険者や社員なのだ。健康保険や人事に関する制度と手順は、その目的を実現するための仕組みにすぎない。
 しかし、制度や手順を運用していくと、いつの間にか目的意識が希薄となり、目先の仕組みを運用していくこと、徹底していくことにのみエネルギーが損なわれ、肝心の目的であるサービス提供がないがしろにされる事態が、いたるところに出現する。いわば制度疲労である。
 
■国や公共機関は選挙があるだけマシだが能力開発を行っているのは誰か?
 国や公共機関の仕組みも同様で、国や公共サービスを提供するために、仕組みとしての制度や手順を、法律等で制定する。しかしその制度や手順を定期的に見直し、試行錯誤の機会を与え、進歩させようとしているしくみが選挙制度と言える。いわば制度疲労に対処するために、選挙によって、法律等の制定権限者を変えて、試行錯誤により進歩する機能を内在させているのである。
 だとすれは、健康保険組合や人事部門も、組織構成員を一定割合で変動させることが望ましい。もちろん、やみくもな人事異動ではなく、個々のメンバーのキャリアプランの実現とマッチングさせることがより望ましいことは、言うまでもない。健康保険組合や人事部門ではない、別のサービス部門、できれば高いレベルでサービス提供している営業部門や顧客対応部門を経験することも、とても重要な経験である。
 このような経験をし、考えている最中、国や公共機関の職員に対して、能力開発プログラムを提供している団体の幹部と情報交換させていただく機会があり、国や公共機関の職員に対する、能力開発の一層の推進の必要性について、大いに共感し合った。
 そして、「国や公共機関の能力開発プログラムの拡充にお役に立つ部分があれば、遠慮なくおっしゃってください」と自然な流れで伝えると、「ありがとうございます。しかし、講師は、その省庁のOBと決まっていますので…」との回答が返ってきた。わが国の、国や公共機関、人事部門のサービスセンス向上のための取り組みへの決意を、さらに高めた瞬間であった。
※社名や個人名は全て仮名です。本稿は、個人の見解であり、特定の企業や団体、政党の見解ではありません。

これ「公務員もビックリ!企業の人事部にも蔓延する“お役所仕事”の実情」と題したダイヤモンドオンライン5月19日の記事である。

 「お役所」と言うのは以前よりの私の公務員感「公務員とは与えられた仕事は忠実にこなし、決して前例を作らず、前例を踏襲し、責任と言う言葉に異常に反応し、その回避には天文学的才能を発揮する人種である。」に全く合致していると言って良い。世の全てが公務員のルールに沿っていると言っても良い。
 彼らは何のために仕事をしてるのか、と言えば何の事無い四六時中責任の回避で動いていると言って良いのである。前記記事等それそのものの事例である。私に言わせれば、サービス業の一員なのにそのサービスを行う仕事来なければ良いと常々思って仕事してるのである。つまり1日何もそんな事無ければ楽で良いし、給料ももらえるし、こんな気楽な商売は他に無いと心から思っているのである。民間企業は損益分岐までの売り上げを確保しなければ存続できないが、彼らは国の交付金だから良いと思っている。つまり売り上げに対する営業努力しなくて良いのである。そこから出発点から違うのである。
 住民サービスにおいても住民に対してサービスよりも自分の職域の責任の回避が頭にこびりついている。簡単に言えば、色んな書類でも担当の職員が、「解かりました私の責任で対処します」と言って収めてくれれば、今ほどその作業のプロセス至上主義が蔓延らなかったろうと思う。とにかく常に責任が自分に来ないかだけしか考えてない。こんな職員等我々民間企業ではいらないし、使い物にもならないのである。私は役人って聞くだけで不愉快になってしまう。それだけ彼らには悩まされたし、いじめられたと言って良い。(彼らはそう思っていないが・・・・・・・・・)