STAP細胞不正問題 報道の側の苦悩に理解

 地震津波など自然災害における防災の研究成果やiPS細胞発見による山中伸弥・京都大教授のノーベル賞受賞など、科学ニュースの注目が増すなかで、STAP細胞の不正疑惑は、今の科学を取り巻くさまざまな課題を浮き彫りにしました。
 博士論文の作成をめぐるコピペ(複写と張り付け)の禁止など研究者になるための基本的な倫理教育の必要性や若手研究者の地位の不安定さ、研究機関の資金獲得競争と成果主義、研究論文の分業化による責任のあいまいさ、雑誌が掲載前に行う「査読」の限界と話題性を優先する商業主義の弊害、ネットによる世界的な検証??などなど、数え上げたらきりがないほどです。その中でも、私たち報道機関に向けられたのが、STAP細胞発見を報じる初期段階で、今回の問題を見極めることができなかったのかという重い指摘です。
 つくば支局で3年、東京本社科学環境部で2年半、科学記者をかじった私としてもじくじたるものがあります。あの記者会見の場にいたら、きっと今回の発表を画期的な成果だと評価する記事を書いていたと思います。また、小保方晴子さんがかっぽう着姿で研究をしていたという話題にしても、「つらいときに励ましてくれた大好きな祖母からもらったかっぽう着」と聞かされては、彼女の人となりを紹介する上で、扱う大きさは別にして、記事にしないことは考えられないと思いました。
 一方で、ジャーナリストの池上彰さんも指摘するように、理化学研究所理研)側が、STAP細胞の優位性を強調する形で、iPS細胞の初期の性質と比較し、それをそのまま記事にしていたことは、大いに反省すべきところがあると思いました。
 大学で文系だった私が科学記者になり、最初に悩んだのは、この仕事が務まるのかということでした。それでも、専門的な研究成果を一般の人に分かりやすく伝えるには、専門家では気付かない一般の目線こそ大切だと思い直し、また、最先端の科学や研究者を取材することに新聞記者としての好奇心も大いにかき立てられました。
 しかし、記者会見で研究成果が発表される場合、発表内容の何がニュースなのか、どの程度のニュース価値や話題性があるのか、発表内容にそごはないのかなどを限られた時間の中で判断し、疑問点をたださなければいけません。それが最先端の科学になればなるほど細分化・専門化されます。
 不正疑惑はネットによる専門家の指摘が発端でした。その後、理研が不正と認定した画像の流用や切り張りに、どうしたら、もっと早く気付くことができただろうかと考えると、記者個人のスキルアップだけで太刀打ちできるものではないようにも感じます。
 STAP細胞の存在の有無については、理研が1年かけて検証するということですが、実は「存在しない」と証明することは簡単ではありません。1年で結果が出なくても、極端にいえば100年後には結果が出るかもしれないからです。今回問題になった英科学誌ネイチャーで昨年秋、「医学生物学論文の70%が、再現できない!」という記事が載り、「数値としてはっきり出る化学や物理学とは違い、再現性の低い医学生物学は科学といえるのか」と話題になりました。さまざまな未知の可能性を持つ生物を扱う医学生物学は、常に曖昧さを伴い、再現性が難しいからこそ、疑惑を招かない研究論文を示す必要があると思うのです。
 最近でも、臨床データを人為的に効果があるように操作したとされる降圧剤バルサルタン(商品名ディオバン)の臨床試験疑惑など、科学の名の下に行われる不正行為は後を絶ちません。
 科学報道のあり方も、ネット社会という新しい環境を意識しつつ、悩み模索しながらも、一つ一つ真実に近づいていく不断の努力が求められているのだと思いました。【岐阜支局長、石塚孝志】

これ「起承転々:STAP細胞報道の難しさ /岐阜」と題した毎日新聞4月22日の地方版の記事である。

 私は今でも記者クラブマスコミ5大紙等信用してない。と言うより毛嫌いの気が強いと言った方が良いのかも知れない。今のマスコミはあまりにも権力に迎合してるからである。マスコミ連中も何の事無い、「ペンを持ったサラリーマン」と私は理解していた。役人と同じだとも思っていた。自分の生活を守るために、そして売れさえすれば全て良し的人間と思っていた。がしかし、この記事を見ていくらか見方が変わった事は事実である。私はこの問題科学であるからこそ、科学で決着と何度も言って来た。つまり、問題の入り口論で、このマスコミ連中が意識してグレーゾーンに引き込んでいたとも思っていた。何のために。それは理研のメンツを守ると言い換えても良い。日本人特有の丸く収める習性がなせる技とも思っていた。ところがこの記事である。記者の方々がこんなにも悩んでいたとは正直思っていなかった。私は科学の論文には感情は無いと思っていた。何故なら白黒と言うより、自分が言っている事を証明しさえすれば問題は無く、その自分の言ってる事を他人に見せさえすれば良いものでゴチャゴチャ何を言ってるのか、マスコミも何でこんな簡単な事にいつまでも。と常に思っていた。そしてその当たり前の事を当たり前に出来なかった、小保方さんを何でマスコミは擁護しないでも、強く批判しないのかと常に思っていた。またその当事者である小保方さんの代理人弁護士である方が何故そのルールを守らず、小保方さんの法的復権にのみ集中するのか良く解からなかった。うがった見方をして、この当事者とマスコミの連中は裏でつながっているのではとも思っていた。が、この記事を読んで記者たちもそれなりに、苦悩して記事を書いていたんだなあとある意味安堵した気持ちが今持ち上げている。でもこの記者の方地方に居る方なんだと思ったら、なんだか真面目に考えた事がチョッピリ残念に思った事も事実である。