改めて国葬を考えるに岸田首相の軽薄さがクローズアップされる

昨日の国葬をテレビで見れば、国が喪主としての国葬が何となく軽く見えた。

何故だろうか?

記念日に望む豪華料理が出て来ても何か嬉しくなく、白けた気持ちが続いた。

何故なのだろうか?

思うにこの国葬決定までの経緯に納得感が無かったからだろう。

国として葬儀を行うと言う事は全て国の責任で行う事であり、当然にその経費も税金だ!

安倍元首相果たしてその国葬に値したのか?

懸案だった「森友学園加計学園問題と桜を観る会問題」の解決も無い状態において、公金を使った人間に、果たして追い銭の如くの公金で国葬?どうしても私的には納得出来ないのである。究極的にいえばそんな人間大嫌いである。だからこそ理屈抜きに国葬は反対だった。

国葬には国民の総意が必要の筈である。言い換えればその証は国会で決める事だったのに、岸田首相は誰にも相談せずに決めたのである。これは独裁以外の何物でもない。

私は岸田首相が首相になった時から批判して来た。あの流ちょうな日本語の挨拶とは裏腹に、実行力の伴わない頼りない軽薄さだった。岸田首相のモットーは「良く他人(ひと)の話を聞く」だった。

その「良く他人(ひと)の話を聞く」人だった筈の人間が、この国葬だけは他人(ひと)の話を聞かずに独断で決めた。その言葉と裏腹な実行力の欠如がこの国葬においてクローズアップされたのは皮肉な結果である。