総理大臣を目指すと言ってた石原慎太郎氏が逝った 独善的で気遣いの無い者はトップにはなれない!

「孤高の表現者」。2月1日に都内で死去した元東京都知事で作家の石原慎太郎氏の89年の軌跡を振り返ると、この言葉にたどりつく。常に世の注目を集め続けた、激動のその人生を振り返る。

 

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「いずれは総理大臣を目指すよ」

 

 1968年7月の参院選全国区で史上最高の301万票を獲得し初当選したとき、石原氏はこう述べたという。

 

 一橋大学在学中にわずか2日間で初稿を書き上げた短編「太陽の季節」が評価され、23歳で芥川賞を受賞。「狂った果実」など発表した短編は次々と映画化され、出演した弟の裕次郎氏は一気に昭和の大スターになった。

 

 人気作家の地名度を背景に参院議員となると、当時、絶大な権力を誇った田中角栄氏の金権政治を真っ向から批判。72年には衆院選に無所属で出馬し、初当選した。このときの同期が、やはり無所属で立候補していた山崎拓自民党元副総裁だ。

 

「最初の選挙は落選したが、2回目で当選したのは同じ無所属非公認で戦った石原さんの応援を受けたから。はっきりと自己主張し、常に刺激的な言葉で発信をする。政治家として、非常にユニークな存在でした」

 

 73年に中川一郎渡辺美智雄らとタカ派の若手議員集団「青嵐会」を結成して田中首相の親中外交を批判するなど、自民党内の「反主流派」として存在感を発揮し続けた石原氏。だが、総理大臣の夢はあえなく頓挫する。89年、初めて挑んだ総裁選でわずか48票しか集められず、経世会の支持を受けた海部俊樹氏に惨敗したのだ。山崎氏は、その要因をこう振り返る。

 

「広い見識と豊かな才能を持ちながら、政界では孤高の存在。仲間作りをしなかったので、法案作りもままならないという弱点があった。もし、米国のように国民大衆の人気でリーダーが選ばれる大統領制だったら、トップになれただろう」

 

 日本会議会長の田久保忠衛氏も、「国会議員時代、言葉はあっても仲間がいなかったから、悲願の自主憲法を実現できなかった。自由に采配を振るえる都知事になったことで、かなり良い結果を残したのではないか」と語る。

 

 実際、石原氏は99年の東京都知事初当選後、全国で最も厳しいディーゼル車規制を盛り込んだ環境確保条例を都議会で成立させるなど、国に先行した独自の政策で注目された。黒いすすを入れたペットボトルを会見でふりかざして大気汚染問題を訴えるなど、パフォーマンスにも長けていた。政治アナリストの伊藤惇夫氏がこう語る。

 

自民党内で意識していた総理総裁になれず、見返してやろうという気持ちもあったのでしょう。国に逆らえない知事が多かった中で、国に意見を唱えることを敢然とやった。知事は国とけんかできるものなのだ、と国民に気づかせたのは石原氏の功績だと思います」

 

 盟友だった亀井静香元建設相も、都知事時代の石原氏の功績をこう語る。

 

「石原が都知事、私が自民党政調会長をしていたころ、彼が『羽田空港に4本目の滑走路を造ろう』と私に言うから、私が省庁とかけあってやらせたんだ。ディーゼル車規制でも、石原は東京の空をきれいにした。偉大なことをやっているんだよ、彼は。ただ単なる文学者ではない」

 

 一方で、2000年、自衛隊の式典で「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害では騒擾(そうじょう)事件すら想定される」と発言するなど、排外的な姿勢が時に問題視された。

 

 12年には、尖閣諸島沖縄県石垣市)を都が購入する計画を突如表明。政府による国有化のきっかけをつくったが、日中関係は著しく悪化した。

 

「知事時代後半は、より国粋主義的な言動が目立つようになりました。それが日本の政治家として国益にプラスになったかというと、疑問を抱かざるを得ません」(前出の伊藤氏)

 

 4期13年という長期にわたり都知事を務めた石原氏。勇ましい言動の一方で、「実は小心者で神経質。にもかかわらず、マッチョな国士を演じ続けた。健康にも気を使い、執務室にフィットネスバイクを置いてトレーニングしてましたね」(元都庁職員)という証言もある。

 

 スターとして自身を上回る注目を集めた弟・裕次郎氏には、複雑な思いがあったようだ。前出の山崎氏はこう証言する。

 

「10年ぐらい前、家族同士で食事をしに行ったとき、慎太郎さんは裕次郎さんが歌って大ヒットした『勇者たち』を歌った。非常にうまかったので褒めたら、『俺は裕次郎より歌がうまいんだ』と悦に入っていた。常に太陽のような存在だった弟を意識していたんだな、と思いました」

 

 12年、国政に電撃復帰するものの、14年の衆院選に落選すると政界を引退。すでに80歳を超えていたが、作家としての創作意欲は衰えていなかった。16年、田中角栄氏の一人語り風という異例の小説『天才』を発表し、またも世間の話題をさらったのだ。時事通信記者時代に石原氏と親交があった政治評論家の屋山太郎氏がこう語る。

 

「あれだけ田中角栄批判をしていたのに晩年、田中氏を評価するような本を書いたのは驚いた。論理の人というより感情の人。あんなに人間的な人はいない。良くも悪くも、光っていた男でした」

 

 毀誉褒貶(きよほうへん)はあれど、政治家・作家として最大の命である「言葉」で強烈に表現し続けた時代の寵児だったことは間違いない。だから、人々はいつも彼に注目した。私事で恐縮だが、筆者は石原氏が参院に初当選した2カ月後に生まれ、石原氏が好きだった両親に同じ読みの名前を付けられた奇縁がある。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。(本誌・村上新太郎/AERA dot.編集部・上田耕司)

 

週刊朝日  2022年2月18日号

 

 

これ『【追悼】石原慎太郎さん 山崎拓大統領制だったらトップになっていた」』と題したAERAdot 2022/02/09 08:00の配信記事である。

 

 

3人寄れば派閥が出来ると誰かが言ったが、その派閥も出来なければ何も出来ないと言わねばならない。正に仲間の少なかった石原さん願いが大きいほどそれは哀れになってしまう。人間何が大事かと言えば私は正に他人への気遣いではなかろうかと思っている。人間の人生は絶対に自分一人では生きてはいけないのである。時には自分を犠牲にしても他人のためにやらなければいけないのである。独善的では決して生きてはいけない事を、逝った石原さんに捧げたい。