人生の生き様―テレビの無い時代からSNSの時代を生きて

第二次世界大戦直後の昭和22年(1947年)生まれの古希過ぎ爺さんの回顧録として見て頂ければ嬉しいと思い書いた記事である。

私の両親はもうこの世に居ないが、父は大正2年生まれで母は大正4年生まれであった。生きていれば共に100を悠に超えて居るから、居ないのは当然である。

父は我が家に後継ぎがいないため養子として迎えられた後に妻として母を迎えて、姉二人と私をもうけた。

戦後父は地元の土木会社に入り、4半世紀勤め上げその会社を地元ゼネコンと言われるくらいにしたが、病気のため退職した。と言うよりは手術のため4〜5か月休んで出社したら機嫌の悪い社長に一言も口を聞いてもらえず、堪えられなく自己退職したと言うのが真相だ。仕方なく自分で土木会社を起こし、やり始めたら、元の部下たちが来てくれ、以前お世話になった役人たちにも協力されて官公庁の工事も受注できるようになった。そんな折大学4年時にスーパーゼネコンの就活が全て不合格で行くところの無かった私は、親父に頭を下げて入社して現在に至ったのである。そんな折、親父との役所への営業挨拶回りでその前の社長と良く役所で出くわしたが、その社長は「良いなー××君(もちろん親父の事)は後継ぎの息子さんとやれて」と良く言われた事を思い出す。その社長その後すぐ財務内容が悪化し、社長が自殺したため破綻をしてしまい今は無い。聞けばうるさい親父が辞めたらタガが外れ現場での作業員までもが働らかなくなり、原価が掛かり増しになり当然にやっていけなくなってしまった由、当たり前だ。だがその後その破綻会社の債権者たちから、親父にその会社を継続してやってもらえないかとの相談がかなりあり、うちの親父も心が動き、半ば気持ちが動き了解しようとしたため私が必至に止めたため本当にその会社倒産してしまった。父はその会社で1年365日休みなしで働いた。私はそんな訳で父と会う時が余りなくどこかに連れて行ってもらった記憶も1度もなかった。父と会って話をする時は高校時代に土木現場でアルバイトで父の現場で進学等相談話をするくらいだった。

昭和39年(1964年)の東京オリンピックが始まる前にようやくテレビを買ってもらい見た事が大変嬉しく今でも忘れられない1コマだ。その前の中学時代は地元の温泉宿の社長の自宅が道路を挟んだ向こう側にあって、早いうちにテレビがあり、当時大相撲の栃若時代の最盛期でジラジラ映りの悪い白黒テレビで、栃錦と若の花の頂上決戦の取り組みを見た興奮が今でも蘇えってくる。

この時代の「三種(3C)の神器」いわゆるカラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) の3機器である。これらが高度成長日本経済のステイタスシンボルだった。恐らく今の若者には想像も出来ず信用もしないであろうが、真実なのである。この後「三種の神器」は2004年(平成16年)4月に松下電器産業(現・パナソニック)が、白物家電の食器洗い乾燥機、IHクッキングヒーター、生ゴミ処理機をキッチン三種の神器と提唱したのが良く知られている。

私の家には昭和39年(1964年)の東京オリンピック時には電話もなく、隣の裕福なお家の電話を借りていたが、ハンドル回して電話交換手の方に相手の電話を告げて掛けるのが分からなくて戸惑った事も覚えてる。ところがそう言う時代を生きて来た私たち最初の戦後っ子は、今や豪華な応接室のような3ナンバーのテレビ付き自家用車の中で、電話と百科事典(ネット検索で可能)を持ち歩き、しかも色んな情報記事にコメントやブログ等をSNSで一瞬のうち世界中のどこにでも発信閲覧できる状況に、タイムトンネルで別世界に行った気分が現実となるに戸惑いやら感心やらで目を丸くしてる。でも若者にはそれが当然で当たり前だと言う事で何の疑問も湧かないと言う事がすごく恐ろしく感じてしまう。我々も本当に歳とったものである。