あるローカル紙から「少年刑務所の面会室」内館牧子を読んで

 昨日あるローカル紙で内館牧子のコラムが載っていた。「少年刑務所の面会室」と言うテーマだった。感動的と言うよりも現世の歪を見る思いがしたので皆さんにも紹介したい。下記にそのまま載せて見たい。
 
 『私は「絆」という言葉がどうも恥ずかしく、絶対といっていいほど使わない。ところが今回、「絆」について考えざるを得ないことがあった。
 それはドラマの取材のために、松本少年刑務所を訪れた時のことだ。刑務所というところに初めて足を踏み入れたのだが、松本少年刑務所は刑務官たちも熱心で温かく、懸命に更生させようという姿勢がわかる。所内は清潔で明るく、受刑者たちは規律を守って刑務作業に打ち込んでいた。
 そんな中で、私が妙な違和感を覚えたのが「面会室」である。映画やテレビドラマによく出てくるが、受刑者と面会者が会う部屋だ。透明なアクリル板で仕切られており、そこにあけられた穴から互いの声が聞こえる。現実の面会室は、ドラマに出てくるのとまったく同じだ。だが、言いようのない殺伐とした空気がよどんでいる。何ひとつ家具調度のない部屋なのだから、殺風景なのは当たり前だが、殺風景という状態よりもっと荒み、もっと寒々しく、映像では表現できない空気感。なぜこんなに殺伐としているのか。どうしてもわからなかった。
 見終えた後で、刑務所の関係者が鍵を閉めながら、何気なく言った。「ここ、あまり使われてないですよね」驚いた私は聞き返した。「親や家族も面会に来なんですか」「あまり来ませんね。それに、しょっちゅう面会に来るような親や家庭環境なら、子供が犯罪に走ることも少ないと思いますよ」この時、あの殺伐とした空気の謎が解けたような気がした。人の住まない家は荒れると言われるように面会室は使われることが少ないがために、空気がよどんでいるのではないか。家族愛が欠如すると、あんなにも荒んだ空気になる。
 私はあの時、初めて「絆」という言葉を思った。これは、もともとは「つなぎとめる綱」を意味するが、そこから「断つ」とのできない強い結びつき」を表している。もしも、家族に「断つ」とのできない強い結びつき」があれば、面会室があまり使われないことはありえまい。そして了刑務所関係者が言うように、「子供が犯罪に走ることも少ない」だろう。「家族の絆」は、人間を作る上での根幹を成すものだと、私はあの空気により、実感させられたのである。それは「愛された認識」というこどだ。親からでなくても、誰かに大切にされて大人になったという認識は、人間を作る上でどれほど大きいだろう。よしんば犯罪に手を染めても、定期的に面会に来てくれる家族がいれば、更生にどれほど力を与えることだろう。「お前のことは絶対に離さないよ」という「絆」があれば、面会室に荒んだ空気がよどむことはない。
 今月11日、松本少年刑務所を舞台に、私が脚本を書いた「塀の中の中学校」というドラマが放送される。TBS系で夜9時から2時間半だ。同刑務所の中には公立中学があり、中学を卒業していない受刑者が年齢に関係なく学んでいる。ドラマでも渡辺謙さんや大滝秀治さんたちが学生服を着て中学生を演じる。教師の方が若く、オダギリジョーさんである。
 ドラマの中で、受刑者たちが毛筆で年賀状を書く練習のシーンがある。先生が「実際にこれを家族に出すから、宛名も書いて」と言うど、全員が刑務所の住所を書き、自分宛に出す。賀状を出しても喜んでくれる家族ではないとわかっているのだ。これは実際のエピソードである。
 「家族の絆」は貧しさや家族形態とは関係がない。家族形態とは関係がない。「愛された認識」、それだけだと思う。(脚本家:内館牧子)』